glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

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心理学と、うさぎの夢

 

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今から約4年前に師匠と出会い、彼の気持ちを理解したくて心理学を学ぼうと決めました。前回の続きになります。( → 前回の記事: 師匠のこと

この頃はまだ、アスペルガーという言葉さえ知りません。どちらかと言うと、ただ純粋に「人の心理について超詳しくなりたい!」くらいの軽い気持ちでした。師匠の真意は全くわかりませんでしたが、心理学の知識を得ればわかるようになるだろうと考えていました。

それまで私にとって心理学とは、多少興味はあったものの、どこか遠くの世界でした。それに、わざわざ心理学を学ぶ必要もないと思っていました。そんなもの習わなくても、私は人並み以上に人の気持ちがわかると思っていたからです。

 

関東圏内で心理学を学べる団体に一括資料請求をし、資料が最も簡素だったスクールに即日申し込みをしました。連日ポストに入りきらないほどの分厚い紙の塊があちこちから届く中、そのスクールからの資料は「角形8号の薄っぺらい封筒」一通のみでした。

実直に勝手にやっています、どうしても来たければどうぞご自由に… と言わんばかりの素っ気ない資料を見た瞬間、間違いないと思いました。そういう点に、私はシビアです。私は対価を払ってでも学びたいのであって、豪華な広告費の一端を担う気はないからです。

私の直観は大正解でした。恩師はすぐに、私の二人目の師匠となりました。彼のスクールを選んだことは、今でも私の自慢です。授業中は毎回必死でノートを取りました。授業の後も、家に帰ってからもずっと勉強をしていました。

 

心理学の『知識を得ること』に関しては、本当に面白かったです。しかし、実は今そのことを少し書きかけてみて、ちょっと思うところができました。もう少し納得の行くまで考えてから、別で書こうと思います。そこは今回は省略です。

 ※ 更新しました。( → 続編: 心理学スクールでのうさぎ )

基本的に授業は毎回とても楽しかったのですが、唯一辛かったのは自分の生い立ちを振り返ることでした。自分では当たり前だと思っていたことが、実はそうではなかったとたくさん気づきました。

私はずっと孤独で、本当は寂しかったこと。本当はずっと、大人に甘えたかったこと。自分がどんなに愛や居場所に飢えていたのかを、はじめて思い知りました。

過去を振り返る度に、授業中にも関わらず涙が溢れてしまい、堪えるのに必死でした。授業中は何とか頑張りほっとしたのも束の間、今度は帰りの電車の中で涙が出てきてしまい、よく恥ずかしい思いをしました。私はとても泣き虫です。場所を弁えずにボロボロと涙が出てしまい、自分でも止められません。

 

それでもなんとか無事にスクールを卒業し、認定試験も合格して心理カウンセラーの資格をとりました。とは言っても民間資格なので、持っているからどうということもないのですが... これでも一応、私は心理カウンセラーでメンタルトレーナーなのです。それが約2年前のことです

前回も書きましたが、私が心理学に興味を持ったきっかけのひとつは、ある心理カウンセラーの方が書いた記事でした。内容は全く覚えていませんが、人の心理についてとても的確に表現していて感心したのを覚えています。

そして私も心理学を学び、徐々に自信が付きました。そしてもしも叶うなら、私も将来その記事を書いた人のように、心理学を使った仕事をしてみたいと思うようになりました。私が人生ではじめて見つけた『将来の夢』でした。

 

スクールでは心理学の基礎をしっかりと教わりましたが、知れば知るほど奥の深い世界です。卒業した後も自分で本を買ったり、ネットで調べたりと勉強をしていました。

私は「心理カウンセラー」と聞いてパッと思い浮かぶような、いわゆる一般的な心理カウンセラー職にはあまり興味がありませんでした。何となくもっとフランクに、心理カウンセラーらしくない心理カウンセラーになりたいと思っていました。

心理学の知識を元に、過去の自分の経験を活かして何かできないだろうか?そう思っていたので、当時は選り好みをせず片っ端から色んな情報を仕入れていました。

 

そんな頃でした。たまたま『アスペルガー』だの『ADHD』だのという記事が多くヒットしてしまうようなワードを入れて、何かを検索していたのではないかと思います。ネットで調べものをしているときに、一時期とてもそれらの言葉を目にする機会がありました。

発達障害については医療分野なので、スクールではほんの障りだけ(言葉くらい)しか習っていませんでした。医療行為との住み分けは、耳にタコができるくらい叩き込まれました。そこは本当にしっかりした教育を受けられたことに、今でも感謝しています。

なので、はじめはずっとスルーしていたのですが、あまりにも目にするので興味本位でちょっとだけ見てみようかなと... それが私がはじめて「発達障害」という存在に触れた瞬間でした。

ほんの軽い気持ちでした。まさかその後、こんなにも長い付き合いになるなどとは、夢にも思っていませんでした...。次の記事へ続きます( → 続き: アスペルガーと、うさぎの夢 )

 

( →:【うさぎ年表】での分類:心理学を学びはじめる )

師匠のこと

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今から約4年前のこと。私は人の気持ちが全くわかっていないのではないか…? 師匠と思える人に出会い、生まれてはじめてそう疑問を持ちました。

私は師匠が大好きでした。聞きたいことが山程あったので、顔を見れば捕まえて色々と話をしていました。しかし徐々に、彼との会話に戸惑いを覚えるようになりました。彼の反応が毎回、私の予想だにしない方向に行くのです。

私は師匠が何を考えているのかがさっぱりわからず、あまりの感覚の違いに愕然としました。話せば話すほど、彼のことがわからなくなります。どんなに頑張って考えても、一向に真意が掴めません。

私は人一倍、人の気持ちがわかるという自負を持ってずっと生きてきましたそれなのに、大好きな人の気持ちが全くわからない… 不思議で仕方がありませんでした。彼が物凄く変わり者なのかと思いましたが、周りの人に聞いてもそんな様子は感じられません。

彼は、私なら絶対に言わないように気をつけることを臆面もなく言います。私だったら絶対にこうすると思うことを、平然と違うやり方でやります。会話が全く噛み合わず、話す度に混乱しました。私は彼の真意を図りたくて、ネットや本を読み漁りました。

 

色々と学ぶにつれ、私は段々と自分に違和感を感じるようになりました。言葉で表現するのは難しいのですが、どうも「わかるのにわからない」のです。読むとわかるのです。ちゃんと知っているのです。でも、どこかが違う…

そんなことの繰り返しで、彼とも相変わらずちんぷんかんぷんなやり取りを続けていました。半年くらいしてやっと、何となく原因がわかりはじめました。それが「私は人の気持ちがわからない」という衝撃の事実でした。

私は、目の前の相手のリアルな気持ちが全然わかっていないのではないか?過去の経験から得たデータベースによって導き出されたこの場合はこう思うことが正しいという解答を、目の前の相手に重ねているだけなのではないか

 

私は相手の気分を良くさせるために、常に相手の言動をインプットして、その兆候と顛末をパターン化して蓄積してきました。なので、何となく知識としては持っていたのです。それが「わかるのにわからない」の「わかる」の部分です。

しかしそれはある特定の状況下の、典型的な役割に限り応用が利くものでした。例えば風俗嬢という役割のときに、はじめて会ったお客さんが求めていることなら大体わかります。サービス業の店員という役割のときに、怒っているお客さんの怒りを鎮めることも巧くできます。

役割があれば、どう振る舞えば良いかわかります。プライベートでも、浅い付き合いならそれで十分でした。いつも深い付き合いになる前に『リセット』してしまうので、これまであまりその問題が表面化する機会がありませんでした。( → 参考記事: リセット症候群 )

 

ところが師匠とのやり取りでは、私に役割はありませんでした。ただの私でしかありません。そして私は彼が大好きだったので、彼という人間を知りたいと思いました。役割のない、浅くない付き合いとなると、それはもう生身のやり取りです。私にはどうも、それがわからないらしい…

私が30年以上を費やして集めたデータベースは、彼の前では全く役に立ちませんでした。私は34歳にしてはじめて「人は皆それぞれ感じ方や考え方が違う」と知りました

そんな当たり前のことさえ知らずに、私はパターンを全て駆使すれば人の気持ちがわかると信じて生きてきました。そのために、必死でデータベースを構築してきたのです。

データベースだけでは本当に人とわかり合うことはできないのに、私には目の前の相手の気持ちがどうもわからない」… いま思えば呆れてしまうのですが、この頃はまだその深刻さに全く気づいていませんでした。

その頃、たまたまネットで見たとても参考になる記事を書いていた人のプロフィール欄に、職業『心理カウンセラー』とあったのを見て、私も心理学に興味を持ちました。心理学を学べば、彼の気持ちがわかるかもしれないと思ったのです。それが、私が心理学スクールに通おうと思ったきっかけです。

 

私は本当に師匠が大好きでしたが、結局最後までほとんど理解できないままでした。離婚をする前の元夫の会社の取引先の人だったので、私が退職して以来、もう今後も会うことはないと思います。

それでも彼は、私が自分を知る一番はじめのきっかけを与えてくれた人です。私は高校生の頃に人形になろうと決めてから、ずっとそうして生きてきました。彼と出会って、人形を卒業して人として生きたいと思いました。はじめて本気で人を理解したいと思いました

今でも、彼にはとても感謝しています。彼に出会わなければ、心理学を学ぶこともありませんでした。心理学を学ばなければ、アスペルガーという言葉さえ知らずにいたと思います。今の私がいるのは、彼のおかげです。今でも彼は、私にとっての一番の「師匠」です。

その後、私は心理学を学びはじめます。次の記事へ続きます。( → 続き: 心理学と、うさぎの夢 )

 

( →:【うさぎ年表】での分類:心理学を学びはじめる )

音楽やTVなどの好き嫌い

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今回は音楽やTVなど、エンターテイメントに関する嗜好の話です。私は音楽をよく聴きます。と言っても、詳しくはありません。好きな曲や、ふと聴きたくなった曲、或いはそれらのプレイリストをエンドレス・リピートで流していることが多いです。

家のパソコンで1ヶ月以上、同じプレイリスト(多くて20曲程度)を流していることもザラです。車で遠征中の3日間、1曲だけを聴き続けていることもあります。基本的に、ずっと同じ曲を聴いていて飽きるということはあまりありません。他に聴きたい曲ができたタイミングで変えるといった感じです。

それでも、ときどきは意識的に変えることもあります。そうしないと同じ曲を永遠に聴き続けてしまいます。他にも好きで聴きたい曲がたくさんあるのに、このペースでチェンジしているようでは幾ら寿命があっても足りないと思うからです。

音楽の内容については、ここで書くとまた長くなってしまうので今回は止めておきます…

 

今は家にTVがないので、常に音楽をかけています。ネットビデオで誰かと話しているときと、寝ているとき以外は何かしら流れています。ラジオは昔良く聴いていましたが、今はたまに野球中継を聴くくらいで99%は音楽です。

車には地上波がついていますが、余程観たいスポーツの試合やニュースがない限りはその存在を忘れています。ここ1年で一度か二度、数分間観たかなという程度です。車ではたまにラジオをつけます。そのコーナーが面白いと聴きます。終わるとまた音楽に戻します。好きな曲を聴いている方が落ち着くからです。

幼い頃から、私にはTVを観る習慣がありませんでした。教育テレビの『おかあさんといっしょ』の存在は知っていましたが、小学校高学年の夏休みにたまたま夕方TVをつけてみたときにはじめて観ました。子ども向けのアニメもあまり観たことがありませんでした。

スイミングクラブに毎日のように通っていたので、夕方から夜にかけて家にいなかったというのもあります。小学校で「マジカルバナナ」が流行っていましたが、私にはそれが何だかわかりませんでした。TVドラマは、中学生のときにはじめて観ました。たまたま予告で知った『ロングバケーション』が好きになり、唯一録画をしてこっそり観ていました。他にはたまに歌番組を観るくらいでした。

 

学生でまだ実家にいた頃はリビングにしかTVがなく、毎日決まった時間に決まったチャンネルでした。大抵ニュース番組で、あとは父親が好きなサッカー番組などです。その番組が終わると消すのがルールでした。朝はTVは禁止でいつもラジオでした。

18歳で一人暮らしをはじめてからは、ちっちゃいTVがあったので良くつけていました。でも実際には大して観ていませんでした。観てしまうと画面に集中してしまい、そこから動けなくなるからです。

それでも深夜に、まだ地上波でやっていた「F1」を何度か観てとても好きになり、毎回雑誌を買ったり一人で鈴鹿サーキットへ観に行ったりするくらいハマりました。その後は有料放送になったので、以降は疎遠になってしまっています。

 

結婚していた頃が、一番TVを観ていました。元夫がTV人間で、家に帰って真っ先にTVをつける人だったからです。彼の書斎のTVは常についていて、彼がリビングにいる間は必ずリビングのTVもついていました。

その頃は毎週NHKの将棋番組を観ていました。私も将棋が好きになったので、録画して何度も観ました。私は、何かを好きになるととことんハマります。一時期は将棋会館へも通っていました。実力は1級位だと思いますが、何故かアマ三段の免状を持っています。

アニメもたまに観ていました。でもTVをつけてみて、やっていれば観るといった感じです。TV欄でチェックするという習慣がありません。『名探偵コナン』だけは大好きで、毎週録画していました。今もTVがあったら観ていたと思いますが、無ければ無いで一向に構いません

 

最近TVを観る機会があるのは、もっぱらスーパー銭湯です。露天風呂やサウナに付いているので、観たくなくても勝手に音声が聞こえます。嫌なときはなるべく離れた場所に行きますが、それでもどうしても聞こえて来ます。

たまに観てもいいかなという気分になったときは、CMさえ珍しいのでじっと観てしまいます。でも最近は、長い時間は観ていられなくなりました。5分くらいで十分です。それ以上は疲れます。

露天風呂で全員がTVの方を向いて画面を凝視している光景を見ると、何だか気味が悪く感じてしまいます。それに公共の場所では、チャンネルも勝手に変えられません。温泉は大好きなので、それがちょっと残念です。私が一番好きなスーパー銭湯は、ちょっと遠いですが露天風呂にTVがないのでとても嬉しいです。

 

元夫と結婚する前に、2~3回ほど映画を観に行きました。私はほとんど映画を観ません。観たことがあるのはたまたまTVでやっていたものと、アニメの劇場版が大半です。映画館へ行ったのは数えるほどです。ここ十年はもう行っていません。

私は映画が苦手です。よく最後の最後まで「この人は誰だっけ?」とやっています。何度も観ればわかりますが、そうでないと数少ない「知っている俳優さん」以外は、服装が変わると誰だかわからなくなります。敵か味方かもよくわからくなるので、内容が頭に入ってきません。字幕だと全く追い付かないです。

唯一、アメリカのTVドラマ『メンタリスト』だけはハマりました。もちろん吹替版です。元夫がレンタルで借りて来たのがとても面白く、結局全シーズンDVDを買って何度も観ました。夜通しで数日間ぶっ通しで観続けてしまうので、その間は何もできなくなります。トイレさえ何時間も我慢してしまいます。

しかしそれも最終シーズンだけは観ていません。他にやりたいことができて、観はじめると動けなくなることがわかっていたので敢えて観ないようにしていたら、そのままになってしまいました。結局その後に離婚をしてもう手元に無いので、今後も観る機会はないと思います。

 

私は映画や動画にどうしても苦手意識があります。自分のペースで読める活字の方が好きです。動画は速すぎて全然着いて行けない箇所もあれば、私にとっては不要の「間」でイライラする箇所もあり、集中力が切れてしまうのでなかなか難しいです。

活字なら途中で止まって考えたり、さっと見て飛ばしたりすることができます。ちょっと戻って読み直すこともピンポイントでできます。自分のペースで読めて理解できることが有難いです。今後は活字よりもYouTubeが主流になると言われていますが、そうなると非常に困ります…

先に小説や漫画で好きだなと思った物は、映像化されると自分が感じていたイメージや人物像と違ってしまうので戸惑います。良いと評判の作品ほど、どうしても「原作が読みたいな」と思ってしまいます。先に映像で観てしまった物は、何となく怖くて原作が読めません。

 

ラジオは好きです。私は映像が付いているよりも、音声だけの方が良いです。F1や将棋番組を観ていたときも、実際には画面はあまり観ていませんでした。何かをしながら音声だけを聴いている方が多かったです。ラジオ感覚だったのだと思います。

ラジオは一時期、文化放送の『ライオンズナイター』を毎日聴いていました。おかげでライオンズが好きになり、多いときには年間20回以上、一人で球場に行っていました。私はどこへ行くにも、基本は一人です。

どちらかというと、私はライオンズファンと言うよりもライオンズナイターのファンです。全く公平ではない、贔屓すぎる解説がとても好きです。球場にいてもラジオは必須です。ラジオがないと、実際に観ていても試合の状況がよくわかりません

球場ではほとんどふらふらと飲み食い歩きをしていて、あまり座ってちゃんと試合を観ていませんでした。リアルの雰囲気を味わいながらラジオを聴く、という贅沢感が好きでした。ここ数年は、ラジオはたまに聴きますが球場へは行っていません。今は仕事の時間が合わないので無理です。

 

小説や絵本、実用書などは、中学生の頃から千冊以上は買っているはずです。しかし、物が増えるのが嫌で何度も「バッサリ処分」をしているので、現在手元にあるのは50冊ほどです。高校生のとき、100冊近くの文庫本を友人にあげたのが最初の処分でした。

今は同じ本が電子版でも読めますが、私はあまり読んだことがありません。記事やブログなら良く読みますが、本となると何となく感覚が違うのです。でも、そのうちに自然と慣れるものなのかもしれません。今は無理に電子版で読もうとは思わないです。

小説は好きですが、SF物は苦手です。「現実にはあり得ないこと」が多ければ多いほど、読んでいて冷めてしまうのです。アニメなら大丈夫なのですが、活字だと抵抗があります。とても好きな小説でも、クライマックスへ向けて非現実的な内容に傾き、どんどん物語が加速していくと着いて行けなくなります。そこまでは大好きなのですが…

 

図書館は苦手です。借りるのは良いですが、返す自信がありません。レンタルショップなら追加料金が掛かるので這ってでも返却に行きますが、図書館は億劫になってどうしようもないので随分昔に懲りました。

それに「期限」があると落ち着いて読めません。早く読まなくてはと思うと、プレッシャーで手を付けられなくなってしまいます。図書館で借りた本を「積読」していても仕方が無いので、もし行ってもその場で読むだけで、借りて帰らないようにしています。

私は本を読むのが遅いです。世間では「如何に速く多くの本を読めるか?」が注目されていますが、私はそれには興味がありません。速く多くを読んでも大して覚えていないからです。色んなことを感じながら、考えながら、行きつ戻りつ休みつつ読む方が記憶に定着します。

それに折角誰かが身を削って書いたものを、時間を競ってカウントを稼ぐようにただ「消費」するのは失礼に思います。好きと思えない物は、それ以上読まなければ良いだけです。ただノルマを達成するためだけに嫌々本を読むことは、時間の無駄だと思っています。本当に好きな物を何度も読む方が、私にとっては幸せで意味のあることです。

 

漫画も、良く考えたら意外と読んでいます。こちらもいま手元にあるのは3つだけです。もう10年以上前に読んで好きになった『Good Job〜グッジョブ』、最近好きになった『ちひろさん』と『セトウツミ』です。

やはり場所を取るので、どうしても我慢ができずに多くは売ってしまいます。本や漫画は「読む」という行為に対しての対価を支払うという感覚なので、手放すことに「勿体ない」という感情はありません。売ったお金でまた他の本が買える方が嬉しいです。

だいぶ長くなってしまったので、そろそろ終わりにします。おしまいにひとつだけ。私はお笑いも好きです。サンドウィッチマンが大好きです。何十回同じネタを観ても飽きません。一度観はじめるとこれも何十時間も観てしまうので、なるべく自粛しています。いつか生で観てみたいです。もちろん、そのときはまた一人で観に行くのだろうなと思います。

 

( →【うさぎ年表】での分類:ブログをはじめる )

リセット症候群

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三年前、人の心理について勉強をしていた頃、ネットではじめて『人間関係リセット症候群』という言葉を見て「あ、私だ」と思いました

それはそれまでの人間関係、縁などを突然全て切ってしまう人の傾向を表した、比較的新しいネーミングです。SNSのアカウント削除をはじめ、連絡先の意図的な変更や、頻繁な引っ越しなどを指すそうです。医学的な病名ではありません。

 

私が意図的に初の『リセット』をしたのは、小学校6年生のときでした。たまたま親の仕事の都合で翌年の6月に、徒歩20分離れた「中学校の学区外」への引っ越しが決まったときです。

私の通っていた小学校からは、私立へ進む人を除いて、住所によって東西のどちらかの公立中学校へ進学するのが決まりでした。今は自由に選べるようになっているそうですが、私の頃は住所が基準でした。

私はちょうど中間地点で、どちらでもさほど距離も変わらず自由に選べる環境でした。通常ならそれぞれの校風やお目当ての部活の強弱、共に進学する友達の状況によって決めるのだと思います。しかし私はそれらに全く関心がなかった心境で、突如決まった引っ越しでした。

 

これ幸いと、私は「引っ越し前の新学期4月から、新しい住所で学区内になる中学校へ進学する」旨を、嬉々として条件付きで小学校の担任の先生へ伝えました。条件とは、先生から誰にも伝えないことです。私はこの喜ばしい決断を、中学校の入学式までなるべく誰にも知られたくありませんでした。

私は「なぜか真面目だと思われていた」小学校時代の自分のイメージ( → 参考記事: 真面目な子?  )  を、後に大好きになった漫画『今日から俺は!!』の主人公たちのごとく一新したかったのです。誰も知らない環境へ行きたかった。その理由を尋ねられるのが嫌でした。

そこまでしておいて何ですが、結果的に私は同級生たちから、どちらの中学校へ行くのか尋ねられることはありませんでした。そのくらい私には離れて寂しいと感じる友達も、そう思ってくれる友達もいませんでした。もしも引っ越しがなかったら、私は中学校へ進学することさえ渋っていたかもしれません。

 

二度目の『リセット』は、私の意図しない「母親の決定」によるものでした。中学3年生の夏の大会が終わり、結局その年の全国中学大会の出場タイムを切れず関東大会出場で甘んじた私を見限った母親が、強制的に月謝の打ちきりを決め、私をスイミングクラブから退会させたときです。

正確には覚えていませんが、突然の告知からの実行だったと思います。3歳からはじめた水泳で最長12年間、クラブが離れてもお互いに支え合い過ごしてきた幼なじみたち。小学生の数年間、毎日のように練習後おおはしゃぎしながら一緒に帰っていたお兄ちゃんたち。

近隣都道府県の系列クラブ合同合宿や大きな大会で、年に数回しか会えなくてもその度に苦楽を共にした、ライバルでもあった同志たち。クラブも地域も違うのに本当に仲が良く、大会で会う度にいつも色んな話をしていた、私にとっては珍しい同い歳の女の子と、ひとつ上のお姉ちゃん。

ほとんど友達のいなかった学校とは対照的に、スイミングクラブでの私には常に男女問わずたくさんの仲間がいました。その大好きだった数十名の仲間たちに、私は何も伝える機会のないまま水泳というフィールドを去りました。

まだ今のように、メールなどの通信技術が発達していない時代でした。学校も違います。私は彼らに関して、どこの高校へ進学したのか、その後も水泳を続けていたのかさえ未だに知りません

 

当時は毎日のように練習や大会の夢を見たり、練習に遅刻しそうになる夢を見て飛び起きたりと、とても混乱しました。今でもたまに、全然練習していないのに大会で泳がなくてはならなくなり焦る夢を見ます。

しかし私は、水泳を辞めさせられたことを直ぐに受け入れました。母親の決定に振り回されるのは毎度のことで、既に慣れっこになっていたからです。月数千円の月謝を払う価値がないと言われてしまったら、稼ぎのない私には何も返す言葉がありませんでした。

それに、忘れてしまえば悲しい気持ちにならずに済みます。未練を持つから悲しくなるのです。母親の決定は絶対で覆らないと知っていた私にとっては、忘れることが唯一の逃げ道でした。一切の関係を絶つ方が、精神的にも楽で諦めが付いたのです。

 

 

高校は、300名以上いた中学校の同級生の中でほとんど接点のなかったふたりだけと同じ、片道一時間以上離れた進学校に進学しました。中学校では何人か友達ができましたが、それよりも嫌な記憶が多かったため、私は再び『リセット』を選びました

一番よく一緒に過ごしていた友達が、遠くへ引っ越してしまったことも理由でした。私は小学校の頃から何故か、一番仲良くなった子がことごとく転校してしまいます。

これはただの偶然ですが、小学校1~2年のクラスで唯一仲良くなった子も、3~4年のクラスで唯一仲良くなった子も遠くへ引っ越してしまいました。その度に折角できた友達がいなくなり、またひとりぼっちになりました。

 

高校生になってもゴールデンウィーク頃までは、中学校のときの友達の何人かと学校帰りに会っていました。その頃、その中の男友達のひとりと何となく付き合っていて、近くの大きな公園の薄暗くなった草陰で初体験を経験しました。

その日を最後に、私は彼と会っていません。数日後、彼から電話で「元カノのことがずっと好きで、やはり諦め切れない」と言われ私はフラれました。彼女は仲良しグループの友達で、以前付き合っていたことは公認でした。私も彼がとても彼女を好きだったことを知っていたので、特に何も言いませんでした。

高校もバラバラで、新しい環境に馴染みはじめた時期とも重なり、それ以降は誰とも連絡を取らなくなりました。そのため私には、地元の友達や幼なじみがひとりもいません

 

高校を卒業してからは、私はバイト先が変わる度に『リセット』をしました。賃貸家賃の更新料を払うのが嫌で2年を待たずに引っ越しを繰り返していたので、折角続いていたバイトも遠くて通えなくなり、最長でも一年ちょっとで転職を繰り返しました。

私は物理的な距離が離れたら、それまでの関係をすべて白紙に戻すことが癖になっていました。それに、そうする以外の方法を知りませんでした。

環境が変わっても相変わらず付き合いを続けられたのは、高校時代にできた数少ない友人5人だけでした。その内のふたりは卒業後すぐに関西と九州へ引っ越してしまったため、年賀状のやり取りだけの付き合いでした。

私は『リセット』をすれば、それまでの嫌だった記憶もリセットできることを知っていました。私のアドレス帳は高校を卒業してから20年近く、常に高校時代の5人と「現在のバイト先の人」のみでした。友人も、彼女たち以外に増えることはありませんでした。今でも続いているのはひとりだけです。

 

幼少時代を共に過ごした地元の幼なじみの存在が、大人になってからどういった感覚を抱くものなのか、私には想像も付きません。また「前の職場の同僚と飲みに行く」という話を聞く度に、少し羨ましく感じます。

一年ちょっと前から、私にも新しい仲間がたくさんできました。彼らとはこの先もずっと、たとえ環境が変わっても付き合い続けることができたらいいなと思っています。私はもう『リセット』をしたくありません。そして、そうしなくても良い関係を築けるようになりたいのです。

 

( →【うさぎ年表】での分類:心理学を学びはじめる )

母親の教育方針② 

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前回の続きです。

 ( → 前回の記事: 母親の教育方針① )

 

母親にとって娘が「正しくあること」は、自分の過去を浄化するためにも不可欠なことだったのだと思います。私もそれは仕方がないと思います。母娘間ではよくある話です。

しかし、彼女は欲張り過ぎたと思います。それは前回のふたつの他に、もうひとつあった「正しさ」の存在です。『常に向上心を持つ』という正しさです。彼女が私をどうさせたかったのかはわかりませんが、娘を使って「より正しい親」であることを誰かに証明したかったのかもしれません。

私は何事をするにも向上心を持って、可能な限り更なる高みを目指さなくてはなりませんでした。それができる環境があるのなら、それを最大限に活かすのが「義務」です。

 

母親の求める向上心には「ジャンル」も「上限」もありませんでした。ひとつができると他のことを指摘され、更にその上のレベルを目指すよう指導されます。私はそれを正しく理解して、正しく実行しないと怒られます。

私は、母親が険しい顔でよくわからないことを言い出し、次第に怒り出すのがいつも嫌でした。私にはなぜそれがそんなにも必要なのか、どうすれば怒られずに済むのかがわかりませんでした。

仕方がないのでその度に、彼女の話で要点と思われる項目を真面目な表情で繰り返すことで、理解したフリをしていました。私はただ「どうやったら話が早く終わるのか」だけをずっと考えていました。その結果、そうすることが一番早いと気づいたからです。そして後は、何をするにもとにかく気を配り、彼女が満足するまでやり続けるだけでした。

私は両親が好きではなかったので、愛されたいとか認められたいとかいった感情はありませんでした。ただ、母親が本気で怒りだすと、何時間でも延々と怒られます。それをできるだけ回避するためには、言われた通りにやる以外ないと学んだのです。


私は母親に、何かしているところを見られるのが大嫌いでした。運動会や発表会などの学校行事では、いつも母親が来ませんようにと本気で願っていました。家族や親戚が見に来ることを喜んでいる周りの子供が、私には全く理解できませんでした。

母親の顔が見えると、私は心底がっかりしました。何をやっても結局、帰ったらまた何か怒られる… そう思ってとても嫌な気持ちがしました。母親が見ている時間は私にとって、一番気を抜いてはならない時間でした。

運動会では、私は何に出場しても一等賞だったのではないかと思います。覚えていません。母親は毎年観に来ていたような気がします。親とお弁当を食べなければならない昼休みのシステムが、一番憂鬱だった記憶があります。午前中の何かについて怒られるのではないかと、毎年びくびくしながら彼女の元へ向かいました。

私の小学校の運動会の思い出は、秋の午後の少し軽くなった風に舞う砂けむりと、そのどこか物哀しさを乗せた風の匂いです。教室から校庭に運んで使っていた自分の椅子を、閉会式後また教室へ運ぶときに見ていた風景です。

毎年その同じ風景をぼんやり眺めていたときの、なぜか鼻の奥がツンとして涙が出そうになった感覚を、今でもとてもよく覚えています。

 

 

勉強に関しては、実はそれほど言われたことがありません。宿題はスイミングクラブへ行く時間までに、自分からさっさと終わらせていました。算数の分数の計算だけは全く理解できずに母親に教わった記憶がありますが、それ以外は親に勉強を見てもらうこともありませんでした。

私は記憶力が良かったのと、要領を得るコツを幼い頃に学んでいたせいか、学校の授業を聞いて宿題さえやっていればテストで点が取れる子供でした。そのためか、勉強しなさいと言われたことも滅多にありませんでした。逆に、なぜ他の子供は授業で聞いたことが答えられないのかが、私には不思議でした。

テストの結果についても、全教科で93~94点以上取っていればそんなに言われませんでした。それ以下のときは、自分でもヤバいと思って先に謝っていました。それでも期末になると、通知表を見るのが怖かったです。ひとつでも最上評価が付かなかった科目があったときには、母親に通知表を見せるのが嫌でした。

 

私は母親に褒められた記憶がほとんどありません。もしかしたらあったのかもしれませんが、私は覚えていません。怒られずに済んだ安堵感の方が強かったのだと思います。

テストで100点を取ったときは自分でもちょっと得意な気持ちになりましたが、それよりも「これなら母親に見せても何も言われない」という確信を持てたことの方が嬉しかったのです。

スイミングの大会でも、なかなか切れなかった全国大会の出場タイムを切れたときに真っ先に感じたのは、これでようやく怒られないという安堵感でした。スイミング関係のことは、私が最も母親に怒られ続けた記憶です。これは長くなるので、またの機会にします。

 

そんな優等生をやっていたためか、私はことあるごとに学年や学校の代表に勝手に任命され、児童代表の挨拶や司会、校外向けのビデオのナレーションなどをやらされていました。その度に母親がお手本を持ってきて、コンセプト作りから彼女主導の元で作るのが常でした。

母親が求めるのは、大人が感動する成果です。彼女が持って来たお手本は、恐らくテレビや実体験で彼女自身が感動したものだったのだと思います。お手本は大人がやっていることです。小学生ならまずやらないようなハイレベルなものを私は毎回作らされ、本番ではそれを完璧に演じなければなりませんでした。

おかげで小学生時代は、すべての代表の役割が私のところに回って来ました。先生たちからは非常に褒められます。校長先生からも直々に褒められます。他校でも参考にされていたようです。

しかし私は、なぜ自分だけがこんなに次から次へ、いちいち母親に怒られる作業をしなければならないのかがわかりませんでした。でも、勝手に回って来るのでやるしかありません。やるのは嫌でしたが、母親に怒られることはもっと嫌でした

 

私の子供の頃の記憶は、母親に怒られた記憶ばかりです。もちろん私にも、楽しかったことや嬉しかったことがあったと思います。でも私はほとんど覚えていません。そしてそういったことは、できる限り親にも話しませんでした。

小学校に上がる頃には既に、私はその日1日にあったことを家で話すのを辞めました。何かを話すといつも、気がついたら怒られているからです。恐らく私の話の中に、母親からしたらもっと向上できる余地が何か見えたのだと思います。

それでも幼かった私は、つい嬉しかったことを話してしまったことが何度かありました。内容は覚えていませんが、誰かに話したくなるほど嬉しいことがあったのだと思います。他に話す人がいなかったのもあります。結果は、毎回同じでした。

私の嬉しかったことの幾つかは、母親に話したせいで嫌な記憶に変わりました。私には、どこがどうして怒られる原因になるのかがさっぱりわかりませんでした。ただ嬉しかったことを話しただけでした。私はその度にいつも泣きながら後悔して、もう二度と話さないと何度も心に誓いました。

 


 

心理学スクールで色々と学び、自分の過去を客観的に振り返ったとき、私は唖然としました。よくやって来れたなと感心しました。

そして私は30代半ばになってまで、自分が母親の顔色を伺って生きていることに気がつきました。周囲の協力が必要な決定をするときの基準が、自分のではなく母親の価値観そのものだったからです。

その後「毒親」という言葉を知り、親子の愛着問題について勉強しました。私は暴力を受けたこともなければ、両親はアル中でもありません。ずっと『私は恵まれている』という母親の言葉を信じていましたが、今ではちょっとおかしかったことがわかります。

 

世間では一般的に、親は大切に敬うものとされています。しかし最近は「嫌いなものは嫌いで良い」という意見も多くなりました。私はそれを知り、とてもホッとしました。今ではできるだけ距離を置くようにしています。

たまに親の話を少しでもすると「それでも、心のどこかでは親の愛を求めてしまうもので、親には認められたいものである」といった内容のことを言われるときがあります。親と距離を置くのにも、ものすごい葛藤や罪悪感を抱える人の話も数多く聞きます。

それでもやはり私は、何も感じることがありません嫌いなものは嫌い。距離を置けるならそれに越したことはありません。葛藤も罪悪感も、全くないのです。

嫌いで構わないという文章を読んだとき、私は「あ、なんだ。いいんだ」と思い、それ切りでした。これはもしかしたら、アスペルガー傾向のおかげかもしれないと思っています。ここへ来てまでまた悩みが増えずに済んだことを、実は少しだけ感謝しています。

 

( →【うさぎ年表】での分類:小学生時代 )

母親の教育方針①

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私は、幼い頃の「とても嫌だったこと」を、今でもとても良く覚えています。それらは、両親に関わる記憶が一番多いです。主に怒られた記憶です。

今回は母親の教育方針について、2回に分けて書こうと思います。これはどちらかというと、発達障害よりも母娘間での愛着の問題だと思います。

これらは私が3~4年前に心理学スクールへ通っていたときに、当時習った『脚本分析』という手法を使ってはじめて自分の過去を振り返って気づき、自分なりにまとめたことです。母親の過去に関しては、本人から以前に一度だけ聞いたことがある内容です。

 

私の母親が「正しさ」にとても厳しくなったのは、彼女の生い立ちに由来しています。私は両親に特に思い入れがないので、冷静に分析ができます。母親の厳しさは、彼女にとっては必然的なことだったと思っています。

母親の両親は離婚をしており、彼女は姉妹とともに祖父母(私の曾祖父母)に預けられた経験を持っています。当時はまだ、離婚が珍しい時代でした。彼女たちは近所でも有名な「可哀想な姉妹」だったそうです。

そこでまだ幼かった彼女は状況を鑑みず、義理の伯母に対し子供特有の「ワガママ」を色々と言ってしまったそうです。大人の事情や立場をまだ知らなかったとはいえ、彼女はそのことを今でも後悔しています。

そして、淋しさから菓子パンばかり食べていたことが原因(と本人は言っています)で、彼女は私が生まれる少し前に、出産を危ぶまれるほどの大病を患いました。私が当時では珍しい一人っ子なのは、そのことが原因です。

 

娘には同じ過ちを繰り返させる訳にはいかないと、常に礼儀正しく食に正しくが母親の教育方針となりました。彼女にとっての正しいこととは、彼女曰く「世間一般に言われている普通の幸せ」です。それはとても努力をしてようやく手に入るもので、そうしなければ決して届かないものなのです。

例えば家族が揃って食卓につくことは、普通の家庭にとって「しなければならないこと」です。両親は共働きで、私は普段ひとりでの食事が多かったのですが、ひとりの方が気楽で好きでした。たまに彼らと食事をする時間は、私にとって正に「しなければならないこと」でした。

周囲から可哀想だと思われていたことが、彼女は悔しかったのだと思います。自分が果たせなかった正しい人生を、どうしても娘には歩ませたかったようです。私は物心付いた頃から、母親から常に正しくあることを求められて生きてきました。以下は、私の小学生のときの記憶です…

 

たとえ相手が親だろうと、人様に迷惑をかけることは「悪いこと」です。親を待たせることは、親に対して失礼に当たります。待たせているのだから走りなさい、急ぎなさいといつも怒られました。そして、待たせたことを謝ります。

親の運転する車から降りるときは、毎回きちんとお礼を言わないと怒られます。もう一度車に戻らされ、やり直しです。何かをしてもらったら、その都度感謝の言葉を述べないと失礼です。大人に言われたことを守らないのは、目上である「大人」に対して失礼です。

人に対しては、常に礼儀正しくしないといけません。大人と同等のレベルができて当たり前で「子供だから」は言い訳です。それは、両親の次に近い血縁の祖母に対しても同じでした。

お正月とお盆に祖母の家に行ったときには、礼儀正しく挨拶をして「お邪魔します」と言い、靴を揃えてから上がります。率先してお手伝いを申し出ます。お小遣いはひとまず「気持ちだけ」受け取り、それでも強引にくれるときだけもらって、すぐに親に断った経緯と金額を報告します。私は祖母の家に行くことが、余り好きではありませんでした。

 

お菓子やジュース、添加物の入った加工食品などは、体に毒なので食べてはいけません。母親が作った麦茶がなくなれば、次に作るまでは「水も牛乳もあるでしょ?」と言われます。今は好きですが、昔はそんなに牛乳が好きではなかったので、私の選択肢は水だけでした。

お菓子は年に数回だけ、添加物の入っていないチョコ棒を買ってもらえます。とても嬉しくて、毎回こっそり一度に全部食べては怒られました。その後また数ヶ月は買ってもらえなくなります。高学年になってはじめて、同級生について行って駄菓子屋に入ったとき、私は何を食べたら良いのかわからず、おもちゃしか買えませんでした。

年に一度、スイミングクラブのコーチがみんなを連れて行ってくれるモスバーガーだけが、私が唯一行ったことのあるファーストフード店でした。世の中にはこんな食べ物があるのかと、私は興味深々でした。私がはじめてカップラーメンを食べたのは、中学生になってからです。

 

体に良いと母親が買って来たものは、それがどんなに嫌いなものでも毎日食べなくてはいけません。私は昔から、プルーンがこの世で一番嫌いです。生の果物としては普通に食べられますが、よく売られているドライのプルーンがダメです。匂いだけで吐きそうになります。

しかしとても体に良いということで、定期的に母親が大袋で買って来ます。嫌で嫌で堪りませんでしたが、それがなくなるまでは毎朝一粒ずつ食べないと、通学班の集合場所に行かせてもらえませんでした。

時間通りに行かないと、他の人に迷惑が掛かります。それはそれで怒られます。母親が見ているときはどうしようもないので、泣きながら食べました。いないときはゴミ箱に捨てていましたが、見つかるとひどく怒られます。翌日、お皿に二粒乗っていることもありました。

最終的にはこっそりと学校まで持って行き、教室のゴミ箱に捨てていました。ランドセルの奥に隠して持って行くのですが、匂いが移ってしまう気がしてとても嫌でした。厳重に慎重に、何枚ものティッシュを使ってくるんでいました。

 

…まだまだありますが、それらをすべて守らないと「正しくて幸せな、普通の人生」を歩めないと言われ続けて育ちました。それは私のためであり、私は「恵まれているのだから」それらはできて当たり前のことなのです。

私が恵まれているというのは、両親と一緒に何不自由なく暮らせていることです。「一緒に暮らしたくても暮らせない人もいるのだから、ちゃんと言うことを守りなさい」というのが、母親の口癖でした。上記の事項は目標などではなく、母親にとっては私がこなす最低限の義務でした。

 

幼かった私は、それらの言い付けを次々と守りました。嫌なことは本当に嫌でしたが、それを除けば私にとってはさほど難しいことではありませんでした。ただ言われた通りにやれば、怒られずに済むのです。私はどこか、ゲーム感覚でそれらをこなしていたのだと思います。

周りの大人たちが口を揃えて私を褒める姿を見る度に、私は奇妙に感じていました。彼らに失礼のないよう当たり前のことをしているだけなのに、わざわざ褒められる必要性が私にはよくわかりませんでした。それに、褒められるとお礼を言わなければなりません。面倒が増えて嫌でした。

兄弟がいなかったこと、友達もほとんどいなかったことで、私にとっては比較の対象がありませんでした。「子供」とはそんなもの、どこの家でも同じなのだろうと思っていました。

しかし、他の子供は私ほど、礼儀にも食にも正しくはありませんでした。なぜできないのか?なぜできなくても許されてしまうのか?私はずっと不思議に思っていました。それでも私はやらなければ怒られるので、実際にはその疑問について考えている暇がありませんでした。

 

特に「人に不快な思いをさせないこと」は、幼い私にとって基本中の基本であり、一番の関心事でした。それはその後、私が生きていく中でとても役立ちます。結果的に『マスク』として、私は独自に様々なバリエーションを身に付けることになります。( → 参考記事:『マスク』について  )

私はもうこの時点で、既に相当な「良い子」を演じて来たつもりでした。そこで終われば、私も楽だったと思います。しかし、母親の求める「正しさ」は、礼儀や食だけに留まりませんでした。それは次回へ続きます…

 

( → 続きはこちら: 母親の教育方針② )

 

( →【うさぎ年表】での分類:小学生時代 )

距離感がおかしい

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これも最近になって気がついたことですが、私はパーソナルスペースが人と少し違うようです。相手との物理的・心理的な距離が、どうやら他の人の目には不自然に映るようです。

 

「対人モード」がONのときには、きちんと礼儀正しく振る舞えます接客中や初対面の相手に対しては、距離感も変ではないと思います。( → 参考記事: 「対人モード」について )  私は接客業の経験が長いですが、接客態度について注意されたことは一度もありません。

敬語も得意な方です。普段はあまり使っていませんが、仕事モードに入ると尊敬語と謙譲語の使い分けにもうるさいです。マイクアナウンスのある職場で、間違った敬語が使われている台詞を読むのが嫌で仕方がなく、勝手にマニュアルを書き直してひどく怒られたこともあります。

接客用の笑顔で受け答えをすれば、大抵の相手は好印象を抱くと自負しています。「笑顔がいい」「感じがいい」とお客さんから褒められるのはいつものことです。毎回更なる笑顔でありがとうございますと返していますが、それも実はちょっと面倒臭いです。

ところが、プライベートになると勝手が違います。初対面やどうでもいい人の場合には、上記のように「対人モード」で距離感を保てます。しかし、相手を「もてなさなくて良い相手」だと認識し、対人モードがOFFになると途端にわからなくなるようです

 

以下は、プライベートのときのことです。まず、相手が女性の場合、私は一律に自分でもわかるほどにぎこちなくなります

文面ではすごく仲良くやり取りをしていても、実際に会うとなかなか近づけません。思うように喋れず、顔を見て話すのがやっとです。相手のことが好きで、会えることをとても楽しみにしていてもそうなります。

高校時代からの唯一の友人でも同じです。先日も久しぶりに会ったのですが、いざ会うと緊張してしまい、赤の他人のように離れて歩きます。

よく女性同士でくっついて喋っている人を見ますが、私にはとてもできません。常に無意識に、手を伸ばしても届かないくらいの距離をあけてしまいます。

彼女にもやはり、すごく意識を向けないと普通に話せませんでした。言葉に詰まってしまったり、思った所で相槌が打てなかったり、言葉が単調でぶっきらぼうになったりと色々大変です。自分でも「幼い感じ」の対応になっていると思います

 

長い時間、ずっと女性だけといるのはどうしても辛いです。高校からのその友人と、最近親しくなっていつも何かと面倒をみてくれるお姉ちゃんだけは、直ぐにお酒が入ったこともあり5~6時間二人で過ごせました。私の最長記録です。でも基本的には、数分話すのがやっとです。

文面なら平気です。とても楽しいのでたくさん喋れます。でも対面だと逃げたくなってしまうので、他に男性がいるときはずっとそっちにいます。本当はたくさん喋りたいことがあるのです。それなのに、いつも近くに行けなくてごめんなさい。

相手が女性の場合は、以上で終わりです。最近はとても仲良くしてもらえることが増えて会う機会も多くなりましたが、以前はそもそも仲の良い女性がほぼいませんでした。だからまだ慣れていないのかもしれません。これから少しずつ近づけるようになるのかもしれません。

 

 

そして恐らく問題が大きいのは、相手が男性の場合だと思います私は距離を詰め過ぎる傾向があります。もちろん嫌いな人には近づきませんが、少し仲良くなってきたり、これから仲良くなりたいと思っている人が相手だと、一気に近づいてしまいます。

「自分の中」での相手との心理的な距離感が、そのまま物理的な距離感に表れてしまうようです。特に、二人で話しているときに顕著になるように思います。

これはずっと無意識で、自分では気がつきませんでした。確かに、今までに「近すぎ!」と退かれたことが何度もあります。その度に、そんなに私は嫌われているのかと悲しく思ったのですが、どうやら私が近づきすぎだったようです。

私は実際の親密さや、相手が感じる距離を全く考慮せずに、自分の感覚だけで接してしまうのだと思います。好きな相手には、たくさん話を聞いてみたい気持ちがあります。それでも実際に会うとなかなか思ったことが言葉にできないので、代わりに近づいて行ってしまうのではないかと思います。

 

これは男女問わずですが、私は二人きりでないと落ち着いて話せません。ワイワイ楽しく馬鹿ふざけをするなら大勢でもいいのですが、そうなると本当に聞きたいことが聞けません。

他の人がいるとそちらに気を取られてしまい、いつも何故か、本当に話したい人から離れた場所に行ってしまいます。傍に行ったとしても、その状況では話したいことが話せないとわかっているので、無意識に避けてしまうのかもしれません。結局、本当に話したい人とは全く喋れずに終わってしまうことが多いです。

そんなことばかりなので、どうしても話がしたいときには私は二人きりで会いたいのです。とくに普段、文面ではどうしても長くなったり聞きにくかったりすることは、実際に会えたときに聞いてみたいと思っています。

 

私が距離を詰めてしまっても、元々性格がオープンな人ならそれで一躍意気投合します。昔からの友人だったかのように、初日から何でも話せてしまいます。

しかし当たり前ですが、そういう人は多くはいません。大抵は警戒されます。私はよく「怖い」と言われます。

それは、私が女性だからだというのもあると思います。私はどうも、そういう所に無自覚過ぎるようです。恋愛感情というものは自分でもよくわかっていないと思うのですが、それでも私は子供ではないので、性に対する自分の意思は持っています。

ただ、やはり距離感がよくわからないので、自分ではそんなつもりはないのに相手に怖がられたり、反対に嫌な思いをしたりすることが度々あります。

今だからわかるのですが、私は相手を「ひとりの人」として好きだから二人で話したいと思っても、相手はそう思ってくれないことがあります。

過去にすごくちゃんと仲良くなれたと思っていた人に、突然むりやりされてしまったこともありました。その人は私の「地元のお兄さん」のような人だったので、今でも思い出すととても寂しく感じます。(その話は書くと長くなってしまうので、またの機会に書きます)

 

最近は少しは自覚できているので気をつけるようにしていますが、それでも好きな人が相手だと、気がつくと近づいてしまっています。その上困ったことに、相手がとても信頼している大好きな人だと、気を抜くとくっついてしまっていることがあります。話しているときに、相手に触れていると安心するからです

私は恐らく、対面で話していても相手が何を思っているのかがわからないので、どうしても不安になるのだと思います。見てもわからないので、触れることで確認をしたいのだと思います。昔から、私は人の体温が好きです。

今はそれでもスルーして普通に接してくれるような有難い人が多いので、本当に助かっています。しかし、やはりもっと意識して近づきすぎないようにしなければいけないなと思います。

今この話を書いていて、過去に突然避けられてしまった人も、もしかしたら私が近づき過ぎてしまったことが原因なのかもしれないと思いました。距離感を間違えて大好きな人を失ってしまうのは、もう本当にこりごりです。

 

( →【うさぎ年表】での分類:アスペルガーを疑いはじめる )