glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

20190623192406

『データベース』の仕組み

20200319145507

 

前の記事で、私の『データベース』について詳しく書きはじめたところ、それはそれで結構なボリュームになってしまいました。仕方がないので、その部分は丸々カットで「下書きという名の楽園送りになりました

やはりそうなった以上、この場で即時継承をしておかないといけません。そうしなればその下書きは無垢の記事となり、永遠に楽園内を彷徨い続けます。それは私にとっても脅威となります。そうなる前に、さっさと完成させて投稿します。

…今回は『進撃の巨人』に喩えてみました。どの程度伝わるものでしょうか?( → 前の記事: 国語の文章問題が得意なワケ )

 

予め、断りを入れます。今回は『私の頭の中で起きていることを頑張って言語化するのですが、正直わかりにくいと思います。(普段からそうだったらごめんなさい…)

私が頭の中をそのまま書くと、どうしても比喩的な表現やイメージに偏ります。私は極端に「身の回りの物事に当て嵌めた表現」ばかりを多用します。それは、日頃から私がそういう風に物事を捉えているからです。

可能な限り『翻訳』をして、つまりそれはこういう意味で…と付け足すようにはします。しかしそれでも、人には伝わりづらいと思います。過去にこういう類いの話をした際に、私自身が誰かに伝わった!と思えたことが、今までに一度も無いからです

それでもこのブログは、比較的私の感覚に近い人以外は、わざわざ好んで読むこともないと思います。なので、出来るだけ自分の感覚を優先して書きます。誰かひとりでも、何となくでもわかってくれたら嬉しいな…

 

私の『データベース』について詳しく説明をすると、大まかに言えば二層式の作りになっています。雑多な未分類の「パターン」を入れておく大きな引き出しと、細かく分類された「データ」を保存する収納棚のようなイメージです。

20200319143823

 

既存の「データ」の内、実際に私が「感覚的に身に付けたデータというのはごく僅かです。それはつまり、はじめて遭遇した相手の言動(=パターン)について、その意図をその場で『直接理解』できたのはとても少ないという意味です。

大半は、後に外部からの情報によってデータ化されたものです。私は未知のパターンに遭遇すると、多くはそのパターンの詳細を、ただそのまま『大きな引き出し』に投げ入れておくのです。

つまりは「よくわからない状態」のまま、取り敢えず全てをインプットしておくという意味です。私は「なぜ」はわからなくても、それ以外の「いつどこで誰が、何をしたときにどうしたか」を覚えていることは得意です。

多くの場合は、一度引き出しを経由してから後日データ化という、1ステップを踏む流れです。相手の言動をノンステップで直接データに変換できることは、私にとっては稀なのです。

 

何かしらかの「言語化された外部情報」に触れたとき、私はいつも『引き出し』をガサゴソ漁ってみます。そしてもし「その情報に該当しそうなパターン」があった場合には、それらのパターンを全て引っ張り出し、ひとつひとつ照会していくのです。

言語化された情報とは、書籍や人の話などの全てです。専門的な話に限りません。人の心境が描写されていれば何でも構わず、使える物は全て使います。実際に、漫画の台詞から歌謡曲の歌詞まで… あらゆる外部情報が役立ちます。

それらの情報と照会し、合致した場合にはじめてそのパターンをデータとして名前を付けて保存できるのです。引き出しからピッキングして、ラベルを付けて該当の棚に収納するイメージです。

例えば、ある歌詞になるほどな!と感じます。そしてふと「このパターンは、以前に見たことがあるかも?」と思い立ちます。ガサゴソと引き出しを漁り、それらしい場面を取り出します。それらの詳細事項を照らし合わせ、色々と比較検証をします。

そして見事に合致すれば、そのパターンは「データ」に昇格です。歌詞にあったような『心境』のラベルをつけて、該当する棚に保存されます。

 

と同時に、恐らくここが最も重要なのですが、以降このパターンに遭遇した際の対応方法を、この段階で決定しておきます。例えば「○○と返す」「それ以上は訊かずに黙って頷く」など、自分がとるべき対応を決めておくのです。

そして「パターン対応法はセットで紐付けられ、私の「データ」のひとつとして無事に収納されます。以降は、このパターンに遭遇しても大丈夫です。私はちゃんと対応できます。

マスクとして機能するのはデータのみです。パターンの引き出しにある段階では、私はまだそのパターンの意図を理解できていません。そしてどのタイミングでどのパターンがデータ化できるのかは、自分でもわかりません

それほど重要でなかったパターンは、いずれ自然と消滅します。反対に十年、二十年とデータ化されずに引き出しに入ったままのパターンも、きっとゴロゴロあると思います。

 

ずっとパターンのまま引き出し残っているものは、それだけ私にとって印象が強かったものだと思います。そういうパターンがいずれデータ化されるときに「良い」か「普通」の認識を持つ棚へ収納されれば問題ありません。私にとっては、データが増えてラッキーです。

外部の情報によってパニックになるのは大抵、そういった古株最悪という認識を持つ棚へ収納されたときです。どんなに昔の出来事でも関係ありません。記憶が古いほど執着も大きいことが多いため、却って「厄介」です。

私にとっては「データ化された時点」で、はじめてその出来事を体感している感覚です。それまでの引き出しに入っている間は、現実には既に起こったことでも、私の中では未だ起こり終わっていないことだからです。

 

その『起こり終わっていない』という概念について、どう説明したら良いのか考えた結果、あるひとつのパターンを書いてみようと思い付きました。実は、正に今、そのことをあらかた書き終わり『楽園送り』が完了した所です。

…確か冒頭に、私は書いたはず。さっさと完成させて投稿します、と。「下書き」をひとつ消化する度、また新たな「下書き」が発生する… とんだ誤算が続きます!

しかも、まだこのデータベースの話には続きがあります。ここまでは「仕組み」についてで、後半はその「活用」についてが… こちらも現在、楽園へ向かう船の中です。

何故あのとき、グリシャは飛行船を見に行ってしまったのだろう。何故あのとき、私は『データベース』について書きはじめてしまったのだろう。でもそれは、今となってはもう仕方のないことです。だってこれは、自分ではじめた物語なのです。

次回へ続く…( → 次の記事: 『データベース』は思い遣り? )

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:ブログをはじめる )