glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

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国語の文章問題が得意なワケ

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心理学スクールの授業内容はとても良く理解できるのに、人の気持ちがわからない… そこで思い当たったのが『事実が言語化されたものならわかる』ということでした。前回の続きです。( → 前回の記事: 心理学スクールでのうさぎ )

 

私は幼い頃から、ずっと人の言動をデータとして蓄積し独自のデータベースを構築して来ました。そして常に、そのデータを元に人と接していました。データベースとは私のコレクションの賜物であり、不可欠なマスクです。( → 参考記事: 『マスク』について )

私がそれまでに構築してきたデータベースのデータとは、正に心理学のテクニックでした。自分ではゲーム感覚だったので「心理学を駆使している」という感覚はありませんでした。しかし結果的に私は、随分と心理学を駆使していたようです。

(データベースについて詳しく書きはじめたら、また話がどんどん逸れたので、コピペして「下書き」へ移動させました。「下書き」を減らそうと思って書いているのに、また増えている…)

 

心理学スクールで授業を受けるにつれ、どんどん私の蓄積してきたデータに「専門用語」が宛がわれてゆきました。授業の度に、まるで今までの答え合わせをしているような感覚がありました

これには密かに得意な気持ちになりました。私は、自分でもびっくりするくらい心理学の知識を持ち合わせていました。授業内容のほとんどは、専門的な呼び方は知らないけど、ずっと幼い頃からデータベースに存在していた内容でした。

…前に心理学スクールのときのことを書いてから半年以上経ち、その間も色々と考えてみましたが、やはりどう考えても私は心理学にそこそこ詳しいのです。そこで感じた違和感が、実は以前にも感じたことのある違和感と同じだと思い当たりました。

アスペルガーについて調べていたときに「国語が苦手という部分が全く当て嵌まらないと疑問に思ったことです。特に文章問題について、アスペルガーの人は苦手だとありました。それについて、自分なりに辿り着いたのが『事実が言語化されたものならわかる』という考察なのです。

 

私は、国語の文章問題が得意です。間違えたことはほとんどありません。中学の頃の現国テストでは、よく学年で一番を取っていました。高校の頃は、全く授業に出ていなくても文章問題だけは解けました。(さすがに知識がないと答えられない漢字や固有名詞はわかりませんでしたが…)

何故私が国語の文章問題なら解けるのかと言うと、学問に使われる文章は「事実のみ」が書かれているからです。事実以外は書かれていません。例えば「彼女は悲しそうに…」と書かれてあれば、正解も「彼女は悲しそう」なのです。

それが著者の勘違いで、登場人物の彼女が本当は別の感情を抱いていたとしても(?)、問題の解答としては考慮する必要がありません。書いてあることが事実だからです。

 

解答欄に『確かに8行目に「悲しそう」という表現で著者は彼女の心境を記述していますが、どちらかといえばこの場合は悲しみよりも不安の方が大きいのではないのでしょうか?私だったらきっと云々…』などと一所懸命考えて書いても、テストの解答としては不正解です。(…△は貰えるかな?)

または、もし問題が『著者は「彼女は悲しそうに」と書いていますが、先生は「彼女は他の感情も抱いていた」と感じます。先生がどう感じたのかを答えなさい』といった出題者個人の見解であるならば、さすがに私もわからないと思います。

しかし学力を測る文章問題では、当然ながらそういった意地悪はありません。私にとっては国語の文章問題も、ただのパズルです。必ず文中のどこかにその正解が記述されていると予めわかっていれば、後はそれを探すのみです。

 

彼女は何故悲しいのかはわからなくても構いません彼女の悲しみには共感できなくても関係ありません。「彼女が主語 」+「感情についての表現」という文章を見つければ良いだけだからです。

しかもその『正解箇所が含まれている文章』は、ご丁寧にもテスト用紙に必ず記載されています。事前に読んで暗記しておく必要もありません。ただ候補群から該当するピースを探せば良いだけの、至れり尽くせりの親切なパズルなのです。

私は幼い頃から、同学年の子供よりも多くの文章に触れていたのかもしれません。そのおかげで文章に抵抗がなくパズルとして捉える余裕があり、正解を導き出す『コツ』を掴んでいたのだと思います。

事実がストレートに文章で書かれていれば、私にもわかるのです。それは心理学の知識についても同じです。どんなに複雑な心理に関する悩みでも、それが悩みとして題材に使用されている時点で既に事実」なのです。

 

 

ところが現実のやり取りでは、必ずしも相手の言葉や文章が「事実だけ」とは限りません。私はそれが確実に「事実」であるならば、ある程度は理解できるのだと思います。しかし、そもそもそれが事実なのかどうかが良くわからないのです。

自分の特性を知ってからは、色々と気をつけて人と関わるようになりました。以前よりは「この言葉は事実なのかな?それとも他の意味があるのかな?」と意識してやり取りをするようにはなっています。

例えば『それは嬉しいなぁ(^^;』という返信。私はつい文字通り「良かった、嬉しいんだ!」と受け取ってしまいます。しかしこの場合の「事実」は、顔文字に気持ちは嬉しいけど、有難迷惑なんだよね…という意味が含まれている場合が多いと学びました。

文面でやり取りをするときには、何度も相手の文章を読み返して「見落としがないか」を隈無く探します。絵文字や顔文字はもちろん、接続詞、助詞、句読点や改行の位置… どれが事実でどれが事実ではないのか、私にはそれらを文法的な要素から推測することしかできません

 

文法的な要素は使いこなせます。助詞による意味の違いなどは文章問題でもたまに出題されますが、そういう問題は得意です。(今はもうほとんど忘れていますが、私は古典の活用形を覚えるのが大好きでした)

小学校2年生のとき、私が今でも大好きな『スイミー』という話が国語の教科書にありました。その中の一節にあった助詞について先生が出した問題に、私が即座に正解を答えたことがあります。周りの生徒から「ほ~」と言う声が漏れ、先生にも誉められました。

スイミーのとそっくりの、ちいさなさかなのきょうだいたち』という文章の中の「…のと…」という部分についての問題です。これは「スイミーのきょうだいとそっくりの」の『きょうだい』の部分を省略した表現で、スイミーの兄弟については冒頭で説明されています。

 

私にとってそんなことはとても簡単で、当たり前の表現でした。私は周りの反応に大変驚きました。私は先生に誉められながら、何でこんな簡単なことで誉められるのだろうと愕然としていました。

そのときの周りの喧騒や、教室の風景がすっと引いてゆくような感覚を、私は未だにはっきりと覚えています。『スイミー』の絵本を持っているのでたまに開いてみるのですが、その度にそのときの奇妙な感覚を思い出します。

このブログもそうですが、私は自分が文章を書くときも文法などの細かい部分にとても拘ります。そのため、書くのがすこぶる遅いです。他の人の文章を読むのも遅いです。誤字脱字が多いと、内容が頭に入らずに困ります。

 

 

上記の「読み返し」は文面での限定スキルなので、対面でのやり取りには使えません。遠回しに断ったり、興味が無いのに社交辞令で訊かれたり… そういうのがわからないと、相手の望んでいないことをしてしまいます。

これを書いていて、以前に書いた「文章と対面でのギャップがある」という件について、少し通ずることがあるような気がしました。ゴーストライター疑惑も、ここに由来しているのかも?( → 参考記事: 「うさぎの印象」その3:文章と対面でのギャップ )

最近では「自分は勘違いが多い」とわかっているので、相手や状況によっては特に気をつけます。しかし今度はいちいち深読みし過ぎてしまい、余計に訳がわからなくなることも多いです

言葉通りに受け取って良いのか、それとも違うのか… あらゆる可能性を考えた上で返すのですが、それでも良くハズします。相手の反応を見て、あーきっとハズしたんだろうな… と気づきます。

 

本当に信頼できる人には「結局はどういう意味?」「こういう解釈でいいの?」と訊いてみることもあります。しかし訊いたら訊いたで、その正解率の低さに呆れます。私がこうかな?と予想したことと全く違う答えが返って来ることが多く、びっくりします。

私が今までの人生で、会話をしていて「ほぼ食い違いも起きず、キャッチボールになっている!」と感じた相手は、実はそう多くはいません。私はずっと自分が基準だったので、いつもわからない相手に憤り、哀しい気持ちになっていました。

しかし今では「自分の方が」違うのだとわかっているので、相手に対する怒りがほとんどなくなりました。それは、自分の特性を受け入れたことの一番大きな恩恵です。

 

更に最近は、今までとは違うコミュニティに身を置いたことで、話をしていても違和感を感じない相手が何人かできました。相手には言いませんが、私は同じ傾向を持った人だと感じています。

彼らとのやり取りはとても楽しいです。私の冗談が、嘘みたいにピンポイントで伝わります。彼らの冗談や急な話の転換の意図も、私にはとても良く理解できるのです。

そういう相手には、いちいち深読みする必要も、確認する必要もありません。何も考えずに話しても気持ち良くラリーが続くそれはとても素晴らしいことだと気がつきました。

過去にも何人かそういう相手はいましたが、私は特に有難いとは思っていませんでした。私はそれ以外の人がおかしくて、彼らが数少ない「普通」の人だと信じていたからです。今思うと、とても有難い存在でした。彼らにはもう会う機会も無いと思いますが、この場を借りてありがとうと伝えたいです。

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:アスペルガーを疑いはじめる )