glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

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文章を書くということ

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久しぶりに更新します。暫く間が空いてしまった一番の大きな原因は、今回は数独をやっていた訳ではなく、衝動的に小説を書きはじめてしまったことです。

私は先月、生まれてはじめて「知っている人が書いた小説」を読みました。それがとても素晴らしくて居ても立ってもいられなくなり、私も書いてみたい、という衝動をどうしても抑えることができなくなりました。

何かに火が付いてしまうと、他のことに全く気が回らずそれ一辺倒になってしまうのは毎度のことです。今まで小説を書こうなどとは一度も思ったことがなかったにも関わらず、暫くは寝ても覚めてもそのことばかりを考えていました

このブログは同じ「文章を書く」行為のため、うまく頭の切り替えができませんでした。本当は投稿直前まで書き上げてあった記事があったのですが… そのことも頭からすっぽりと抜け落ちていました。とにかく目の前の興味に飛び付くのが私の起動力であり、同時に厄介な特性です。

 

小説を書くのにも、私はとても時間が掛かります。私は取り敢えずざっと書いて、後で推敲ができません。冒頭から一文一文、完璧に納得の行く文章にならないと次に進めません。それはこのブログやバイトの品だしでも同じで、効率が悪いとわかっていても止められません。

ワンフレーズ書く毎にプレビューを開きます。そして、その度にいつも冒頭から読み返します。更新箇所まで辿り着く前に、それ以前の箇所に違和感(言い回しや助詞、読点の位置、漢字・かな・カナ、主語を入れるか・どこに入れるか、単語の重複がないかなど諸々)を覚えるとそこを直し、またプレビューで冒頭から読み返し… なかなか更新箇所にまで辿り着きません。

それを繰り返し、やっと数十分かけて更新箇所の確認が叶います。そこを直すとまた冒頭から読み返し… 段々と更新箇所までの文章が長くなり、スクロールするだけで疲れてきます。本当に非効率です。

しかし、そうしないと気持ちが悪くて先に進む気になれません。靴の中に小石が入ったまま歩かなくてはいけない状況に似ています。体の一部にシコリを抱えているような感覚が付きまとって落ち着かず、その不快感を取り除くことにしか頭が回らなくなります

 

私はこのブログをはじめ、いつも文章を書くときは「大まかな主旨」のみを決め、はじめの一文から感覚的に書いています。「趣旨」ではなく「主旨」の方です。結論や目的は一切考えておらず、ただ「こういった感じのことを書こう」という何となくのテーマだけで書きはじめます。

以前にも書きましたが、私にとって文章は水物』です。恐らく、文章を書くことは私にとっての雑談」なのだと思います。取り敢えず最初の一文を書き、それを自分で読んでみてはじめて次の一文を考えて書き… の連続です。

その都度で逐一読み返しているので、余りに話がかけ離れてしまったときには『全体の長さ』の都合で丸々「下書き」に回しますが、それ以外の理由でそれまでに書いた箇所を大幅に直すことはほとんどありません。

文法的なことや細かい部分は馬鹿みたいにしつこく直しますが、文章自体を弄ること(削ったり追加したり入れ替えたり)は滅多にしません。それはブログでも小説でも同じです。

 

雑談とは相手と行う「キャッチボール」で、一球ごとの積み重ねによって成立するものだと思います。私の文章も、まずはそのときの思い付きで一球壁当てをすることからはじまります。その返ってきたボールの位置によって次の流れを決定し、その積み重ねで全体が成立していきます。(私は本当の雑談は苦手です)

ちなみにこの記事は、何となく「ブログを更新しなかった間、小説を書いていたことを書こう」とだけ決めて書きはじめています。どんな流れになるのか、どの程度まで詳しく書くのか、どう締めるのか、何が言いたいのかなどは全て、実際に書いてみないとわかりません。長さもわかりません。次の一文で何を書くのかは、この後「。」を打って読み返してから考えます。

いつもそんな感じで書いているので、途中で「下書き」が増える現象が尽きないのも、ある意味で諦めています。今回は増えないことを祈っていますが、それも最後までわかりません…

 

予め趣旨や結論を決め、構成を考え、箇条書きで全体像を組み立て、書ける部分から徐々に肉付けを… などといった「正しい書き方」は、何度も何度も拝見しています。実際に、何度も試したことがあります。

しかし、喩え自分の中から発生した主張であろうと、一度組み立てた筋書きの通りに書くことはとてもつまらないです。本当に言いたいことに辿り着くまでの文章が、ただの説明や繋ぎに感じてしまいます。そうなると、その部分は書いていても発見や感動が生まれません。その作業はただの苦行です。

私にとって文章を書くという行為は、相手に伝える手段という以前に、その場で自分の中から言葉や感情を紡ぎ出すことが目的です。完全なる自己満足ですが、私はそれで構わないと思っています。

辞書や論文でないのなら、結末を知らない物語を読むことがわくわくするように、わくわくしながら書きたいのです。それに予め筋立てても結局は一部分だけの採用になり、残りは全て「下書き」に回ります。出来もしないノルマを前もって羅列することで、結果的に視界に入るプレッシャーが増えるだけです。

 

小説は、そんなこんなで6000文字過ぎまで書き進めましたが、今はちょっとお休みしています。お休みのきっかけは、小説を書くのに使っていたアプリ(閲覧が縦書きで表示されるので利用していた)の不具合です。突然おかしな記号や中国語のような文字が文中に入ってきて、書いた文章の一部分が飛び飛びに消えてしまいました。

たまに外部へバックアップを取ってはいましたが、何時間も掛けて書いた最新の段落がほとんど消えてしまい唖然としました。その修復だけで、また何時間も掛かりました。私が寝ぼけて操作を誤ったのなら仕方がありませんが、もし本当にアプリの不具合となると少し気味が悪いです。そこは今後の検討事項です。

幸か不幸かそのおかげで一旦調子が狂ったので、図らずとも過集中から抜け出すことができました。それでなければ日常生活もままならず、ひたすら書き続けていたと思います。

その後、非常事態宣言が出て仕事の様相が大きく変化したことと、プライベートでも対応しなければならないことが増え、ずっとバタバタしていました。私は片手間に小説を書くことができません。頭の切り替えに時間が掛かるので、他に課題がある間はアプリを開いても一文字も書けません。

やっと少し頭が落ち着いたので、ようやく小説の続きを… の前に、このブログを思い出しました。折角なのでまた頭が小説に没頭してしまう前に、暫く間が空いた言い訳も兼ねてこの件を書いておくことにしました。思い出して良かったです。

 

 

いま私が書いている小説は、主人公の一人称視点で淡々と綴っていくスタイルです。集中して書いていると、その世界に引っ張られ過ぎてしまうことがあります。実際の私の言葉遣いや動作が主人公のそれと混合してしまい、どちらがどちらかわからなくなってくるのです。

知人との会話や業務上のやり取りでも、気をつけないと主人公の言葉遣いや動作になってしまいます。いきなりキャラが変わったらビックリされると思うし、自分でもちょっと恥ずかしいです。その辺りの切り替えがただでさえ難しいので、このブログと並行して書くことは止めておきます。

なので、また暫く更新が止まる予定です。はじめて興味が湧いて書きはじめた小説なので、まずは書けるところまで書いてみます。自分が読んで満足できるものが書ければ、私にとってそれが一番嬉しいことです

また外部環境によって中断させられるか、書くことに飽きるか、もしくは奇跡的に完成するかまで… しばしそちらの世界を彷徨ってきます!それまでの間、どうぞごきげんよう。

 


 

追記:昨今の新型コロナに関する行動自粛要請に対して

もちろん収入や仕事上の影響は私にとっても大きな問題で、対処すべき事柄が多数発生してしまいました。しかしプライベート面…「外出を控える、極力他人との接触を避けるといった生活に限って言えば、何のストレスも感じていないのが現状です。

心を許せる数名の人とは、今までと変わらずネット上でのやり取りを続けています。元々が遠隔地でさほど顔を合わせる機会のなかった関係なので、その点ではそれほど影響を受けていません。

むしろ不要不急の付き合いを『してはいけない』状況になったので、今までは「少し無理をしてでも人と関わるべきかなと頑張っていたことをしなくて良い正当な理由を得ました。気分的にとても楽です。

新型コロナの一刻も早い終息を願う思いは私も同じです。大変な思いをされている方のことを思うと、胸が痛みます。ただ、少しだけ静かになった周囲の環境に不謹慎ながらもちょっとだけほっと感じてしまうのが正直な気持ちです。(本当に不謹慎でごめんなさい)

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:ブログをはじめる )

『データベース』は思い遣り?

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前回は、私の『データベース』の「仕組み」についてでした。( → 前回の記事: 『データベース』の仕組み ) ここからはその「活用」についてです。相手の言動(=パターン)に遭遇した際の、私の対応について書いていきます。

相手の言動パターンが既にデータ化されている場合、私はそのデータに紐付けられた対応法を実践します。私は『コピー』が得意なので、一度決めた振る舞いは高確率で再現できる自信を持っています。

どの棚に何のデータが入っているかは、全て把握しています。「棚」というのは言動化するための表現なので、本当にそのような棚がある訳ではなく(当たり前ですが)、実際には記憶の中から直観的に「該当する記憶」を呼び起こし、それに沿って演じる感覚です。

 

相手の言動パターンがまだデータとして構築されていない場合は、自分なりに類似とみなしたデータを応用するなど工夫をして、ひとまずの対処をします。その余裕さえないときは、ただとんちんかんなことを言って終わります。

その後ひとりになってはじめて、そのパターンについて考えます。リアルタイムでは対応することに精一杯で、考える暇がありません。後になって落ち着いてから全てを思い返し、はじめてその状況や、感情的な推測に思いを馳せられるのです。

稀にですが、その場で理解できた場合には、すぐに「データ」に変換します。大抵は考えてもよくわからないので、その相手の言動を「新たなパターンとして、詳細と共に引き出しへ入れておきます。その後は、前回書いたような流れを踏襲します。

 

私はずっと、他の人も自分と同じだと信じていました。人とのやり取りとは全て「演じる」ことであり、各人のデータベースの精密度は、年齢や経験に比例するものと思っていました。

円滑なコミュニケーションのためには、データの蓄積が不可欠です。そしてそれは「努力をして」手に入れるものです。あらゆる外部情報に気を配り、時間を掛けて検証を繰り返すことは、とても疲れることだからです。

それでも、より精密なデータベースを構築することは、人に不快な思いをさせないための『最低限の義務』でした。これは、母親の教育方針が色濃く根付いていたと感じます。( → 参考記事: 母親の教育方針① )

 

失礼な言動をする相手に対して、少し前まで私は本当に頭に来ていました。「その言動に」ではありません。その人のデータベースにその対応法が存在していないこと」が許せなかったのです。

何故その年齢(またはその立場)にもなっているのに、その対応法が構築されていないのか。この場面ではこういう対応をすべきことは、私は子供の頃にデータ化している。何故この人は、未だにそれをデータ化していないのか。そして何故、周りの人はそれを許しているのか…

私にとって、それは「怠惰」でした。データベースの管理はコミュニケーションの基本であり、精度を上げることこそが相手への思い遣りでした。私は、データの総量がその人の優しさだと思っていたのです。

今では自分のデータベースの存在を自覚して、こうして客観的に見ることができます。しかしそれまでは、それが人間の頭の基本的な構造だと思っていました。データベースとは、私にとってはそのまま「その人の人間性」でした。

 

人と対面するときはいつも、常に私は気を張り続けていました。素早くデータを活用して巧く演じ切るには、一瞬でも対人モードのスイッチをOFFにしてはいられなかったのです。( → 参考記事: 「対人モード」について )

相手の言動への対応作業は「対人モード」がONのときは、常に一瞬の内で行えます。瞬きをするより早いです。それは、幼い頃からそうできるように鍛練してきたからです。相手に気づかれることもないと思います。

しかし「対人モード」がOFFのときは、面白いほど何もできません。もし途中でその作業が必要になったとしたら、最初にすることは「対人モード」のスイッチをONに入れること… 手動でONにできればの話ですが。

もし少しでも気を抜いたら、相手に失礼な対応をしてしまう。それは、私の人間性を疑われることだと思っていました。私はとても頑張って対応を学び、常に完璧に演じる準備を心掛けていたので、そう思われることだけは絶対に嫌でした。

 

最近はスイッチがOFFのとき、スイッチの存在さえ忘れていることがあります。それ自体はとても良いことですが、そうなると『スイッチをONに入れる』という作業は完全に不可能です。

その結果「ちょっとズレている私」のままの状態で、相手と接することになります。必然的に、無意識に相手に嫌われたり、傷つけたりする可能性も上がります。

とは言うものの、巧く「データ」を元に演じ切れたとしても、それはあくまで自己評価です。本当にその場に相応しかったのか、相手がどう受け取ったのかまではわかりません。

結局どちらにしても、ダメなときはダメです。ただ「意識的に演じて嫌われる」か「無意識の内に嫌われる」かの違いだけです。

 

私としてはまだ「意識的に演じて嫌われる」方が気が楽です。それはそれで、今後その「データ」をブラッシュアップするヒントに繋がるかもしれないからです。一度データ化されたものも、機会があればより精度を上げるに越したことはありません

無意識だと、嫌われたことにさえ気づけません。OFFの状態で接することができるほど心を許した人に、後になって「実はずっと前から嫌われていた」と知るほど辛いことはありません。

いずれにしても、相手を傷つけてしまうことが哀しいことには変わりありません。しかしそれは、誰にでもあることだと知りました。ごめんなさいと言うしかないのかもしれません…

 

 

私には、物心ついた頃にはもう『データベース』がありました。気がついたら無意識にやっていた作業は、やはり説明が難しいです。ここまで細かく分解したのも、今回がはじめてです。書いていて、自分でもなるほど…と思う部分もありました

誰の頭の中にでも、これに近い機能は少なからずあると思います。しかし私の場合は、それが全てでした。私にとっては「データベースにないことを言うことのほうが異常事態でした。

徐々に慣れてはきましたが、以前はそれだけでいちいちパニックになりました。そういう場面になると、私は何も言えずに突然ぼろぼろと泣いてしまいます。そうなる状況も理由もわからなかったので、とても困りました。自分の意志とは関係なく泣いてしまうことを、私はずっとコンプレックスに感じていました。

今では「データベースにないことを言おうとしたから」だとわかります。突然真っ白になって泣き出してしまうことは、今でもたまにあります。でも理由がわかっているので、何とかやり過ごせます。そのことは、またいずれ書けたらいいなと思います。

 

最近は、少しずつですが『データベースを経由させずに話すことができるようになりました。心理学を学び、自分のデータベースの存在を自覚してから、その方法について随分と考えた成果だと思います。

自分の素直な感情や考えを伝えると、相手が喜んでくれることがあると知りました。しかし、傷つけてしまうことも多いです。まだまだ難しいです。

データベースを介さずに直接面と向かって話した内容は、未だにあまり自覚が無いことがほとんどです。後になってやっと自覚が追い付き、反省会がはじまることも日常茶飯事です。これにも少しずつ慣れました。

いま暫くは、こんな感じでも良いのかなと思っています。それにデータベースに頼らずに人と話せると、とても嬉しく感じます。反省会は正直自分でも面倒くさいですが… そんなに悪いものでもないのかな、とも思えるからです。

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:ブログをはじめる )

『データベース』の仕組み

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前の記事で、私の『データベース』について詳しく書きはじめたところ、それはそれで結構なボリュームになってしまいました。仕方がないので、その部分は丸々カットで「下書きという名の楽園送りになりました

やはりそうなった以上、この場で即時継承をしておかないといけません。そうしなればその下書きは無垢の記事となり、永遠に楽園内を彷徨い続けます。それは私にとっても脅威となります。そうなる前に、さっさと完成させて投稿します。

…今回は『進撃の巨人』に喩えてみました。どの程度伝わるものでしょうか?( → 前の記事: 国語の文章問題が得意なワケ )

 

予め、断りを入れます。今回は『私の頭の中で起きていることを頑張って言語化するのですが、正直わかりにくいと思います。(普段からそうだったらごめんなさい…)

私が頭の中をそのまま書くと、どうしても比喩的な表現やイメージに偏ります。私は極端に「身の回りの物事に当て嵌めた表現」ばかりを多用します。それは、日頃から私がそういう風に物事を捉えているからです。

可能な限り『翻訳』をして、つまりそれはこういう意味で…と付け足すようにはします。しかしそれでも、人には伝わりづらいと思います。過去にこういう類いの話をした際に、私自身が誰かに伝わった!と思えたことが、今までに一度も無いからです

それでもこのブログは、比較的私の感覚に近い人以外は、わざわざ好んで読むこともないと思います。なので、出来るだけ自分の感覚を優先して書きます。誰かひとりでも、何となくでもわかってくれたら嬉しいな…

 

私の『データベース』について詳しく説明をすると、大まかに言えば二層式の作りになっています。雑多な未分類の「パターン」を入れておく大きな引き出しと、細かく分類された「データ」を保存する収納棚のようなイメージです。

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既存の「データ」の内、実際に私が「感覚的に身に付けたデータというのはごく僅かです。それはつまり、はじめて遭遇した相手の言動(=パターン)について、その意図をその場で『直接理解』できたのはとても少ないという意味です。

大半は、後に外部からの情報によってデータ化されたものです。私は未知のパターンに遭遇すると、多くはそのパターンの詳細を、ただそのまま『大きな引き出し』に投げ入れておくのです。

つまりは「よくわからない状態」のまま、取り敢えず全てをインプットしておくという意味です。私は「なぜ」はわからなくても、それ以外の「いつどこで誰が、何をしたときにどうしたか」を覚えていることは得意です。

多くの場合は、一度引き出しを経由してから後日データ化という、1ステップを踏む流れです。相手の言動をノンステップで直接データに変換できることは、私にとっては稀なのです。

 

何かしらかの「言語化された外部情報」に触れたとき、私はいつも『引き出し』をガサゴソ漁ってみます。そしてもし「その情報に該当しそうなパターン」があった場合には、それらのパターンを全て引っ張り出し、ひとつひとつ照会していくのです。

言語化された情報とは、書籍や人の話などの全てです。専門的な話に限りません。人の心境が描写されていれば何でも構わず、使える物は全て使います。実際に、漫画の台詞から歌謡曲の歌詞まで… あらゆる外部情報が役立ちます。

それらの情報と照会し、合致した場合にはじめてそのパターンをデータとして名前を付けて保存できるのです。引き出しからピッキングして、ラベルを付けて該当の棚に収納するイメージです。

例えば、ある歌詞になるほどな!と感じます。そしてふと「このパターンは、以前に見たことがあるかも?」と思い立ちます。ガサゴソと引き出しを漁り、それらしい場面を取り出します。それらの詳細事項を照らし合わせ、色々と比較検証をします。

そして見事に合致すれば、そのパターンは「データ」に昇格です。歌詞にあったような『心境』のラベルをつけて、該当する棚に保存されます。

 

と同時に、恐らくここが最も重要なのですが、以降このパターンに遭遇した際の対応方法を、この段階で決定しておきます。例えば「○○と返す」「それ以上は訊かずに黙って頷く」など、自分がとるべき対応を決めておくのです。

そして「パターン対応法はセットで紐付けられ、私の「データ」のひとつとして無事に収納されます。以降は、このパターンに遭遇しても大丈夫です。私はちゃんと対応できます。

マスクとして機能するのはデータのみです。パターンの引き出しにある段階では、私はまだそのパターンの意図を理解できていません。そしてどのタイミングでどのパターンがデータ化できるのかは、自分でもわかりません

それほど重要でなかったパターンは、いずれ自然と消滅します。反対に十年、二十年とデータ化されずに引き出しに入ったままのパターンも、きっとゴロゴロあると思います。

 

ずっとパターンのまま引き出し残っているものは、それだけ私にとって印象が強かったものだと思います。そういうパターンがいずれデータ化されるときに「良い」か「普通」の認識を持つ棚へ収納されれば問題ありません。私にとっては、データが増えてラッキーです。

外部の情報によってパニックになるのは大抵、そういった古株最悪という認識を持つ棚へ収納されたときです。どんなに昔の出来事でも関係ありません。記憶が古いほど執着も大きいことが多いため、却って「厄介」です。

私にとっては「データ化された時点」で、はじめてその出来事を体感している感覚です。それまでの引き出しに入っている間は、現実には既に起こったことでも、私の中では未だ起こり終わっていないことだからです。

 

その『起こり終わっていない』という概念について、どう説明したら良いのか考えた結果、あるひとつのパターンを書いてみようと思い付きました。実は、正に今、そのことをあらかた書き終わり『楽園送り』が完了した所です。

…確か冒頭に、私は書いたはず。さっさと完成させて投稿します、と。「下書き」をひとつ消化する度、また新たな「下書き」が発生する… とんだ誤算が続きます!

しかも、まだこのデータベースの話には続きがあります。ここまでは「仕組み」についてで、後半はその「活用」についてが… こちらも現在、楽園へ向かう船の中です。

何故あのとき、グリシャは飛行船を見に行ってしまったのだろう。何故あのとき、私は『データベース』について書きはじめてしまったのだろう。でもそれは、今となってはもう仕方のないことです。だってこれは、自分ではじめた物語なのです。

次回へ続く…( → 次の記事: 『データベース』は思い遣り? )

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:ブログをはじめる )

国語の文章問題が得意なワケ

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心理学スクールの授業内容はとても良く理解できるのに、人の気持ちがわからない… そこで思い当たったのが『事実が言語化されたものならわかる』ということでした。前回の続きです。( → 前回の記事: 心理学スクールでのうさぎ )

 

私は幼い頃から、ずっと人の言動をデータとして蓄積し独自のデータベースを構築して来ました。そして常に、そのデータを元に人と接していました。データベースとは私のコレクションの賜物であり、不可欠なマスクです。( → 参考記事: 『マスク』について )

私がそれまでに構築してきたデータベースのデータとは、正に心理学のテクニックでした。自分ではゲーム感覚だったので「心理学を駆使している」という感覚はありませんでした。しかし結果的に私は、随分と心理学を駆使していたようです。

(データベースについて詳しく書きはじめたら、また話がどんどん逸れたので、コピペして「下書き」へ移動させました。「下書き」を減らそうと思って書いているのに、また増えている…)

 

心理学スクールで授業を受けるにつれ、どんどん私の蓄積してきたデータに「専門用語」が宛がわれてゆきました。授業の度に、まるで今までの答え合わせをしているような感覚がありました

これには密かに得意な気持ちになりました。私は、自分でもびっくりするくらい心理学の知識を持ち合わせていました。授業内容のほとんどは、専門的な呼び方は知らないけど、ずっと幼い頃からデータベースに存在していた内容でした。

…前に心理学スクールのときのことを書いてから半年以上経ち、その間も色々と考えてみましたが、やはりどう考えても私は心理学にそこそこ詳しいのです。そこで感じた違和感が、実は以前にも感じたことのある違和感と同じだと思い当たりました。

アスペルガーについて調べていたときに「国語が苦手という部分が全く当て嵌まらないと疑問に思ったことです。特に文章問題について、アスペルガーの人は苦手だとありました。それについて、自分なりに辿り着いたのが『事実が言語化されたものならわかる』という考察なのです。

 

私は、国語の文章問題が得意です。間違えたことはほとんどありません。中学の頃の現国テストでは、よく学年で一番を取っていました。高校の頃は、全く授業に出ていなくても文章問題だけは解けました。(さすがに知識がないと答えられない漢字や固有名詞はわかりませんでしたが…)

何故私が国語の文章問題なら解けるのかと言うと、学問に使われる文章は「事実のみ」が書かれているからです。事実以外は書かれていません。例えば「彼女は悲しそうに…」と書かれてあれば、正解も「彼女は悲しそう」なのです。

それが著者の勘違いで、登場人物の彼女が本当は別の感情を抱いていたとしても(?)、問題の解答としては考慮する必要がありません。書いてあることが事実だからです。

 

解答欄に『確かに8行目に「悲しそう」という表現で著者は彼女の心境を記述していますが、どちらかといえばこの場合は悲しみよりも不安の方が大きいのではないのでしょうか?私だったらきっと云々…』などと一所懸命考えて書いても、テストの解答としては不正解です。(…△は貰えるかな?)

または、もし問題が『著者は「彼女は悲しそうに」と書いていますが、先生は「彼女は他の感情も抱いていた」と感じます。先生がどう感じたのかを答えなさい』といった出題者個人の見解であるならば、さすがに私もわからないと思います。

しかし学力を測る文章問題では、当然ながらそういった意地悪はありません。私にとっては国語の文章問題も、ただのパズルです。必ず文中のどこかにその正解が記述されていると予めわかっていれば、後はそれを探すのみです。

 

彼女は何故悲しいのかはわからなくても構いません彼女の悲しみには共感できなくても関係ありません。「彼女が主語 」+「感情についての表現」という文章を見つければ良いだけだからです。

しかもその『正解箇所が含まれている文章』は、ご丁寧にもテスト用紙に必ず記載されています。事前に読んで暗記しておく必要もありません。ただ候補群から該当するピースを探せば良いだけの、至れり尽くせりの親切なパズルなのです。

私は幼い頃から、同学年の子供よりも多くの文章に触れていたのかもしれません。そのおかげで文章に抵抗がなくパズルとして捉える余裕があり、正解を導き出す『コツ』を掴んでいたのだと思います。

事実がストレートに文章で書かれていれば、私にもわかるのです。それは心理学の知識についても同じです。どんなに複雑な心理に関する悩みでも、それが悩みとして題材に使用されている時点で既に事実」なのです。

 

 

ところが現実のやり取りでは、必ずしも相手の言葉や文章が「事実だけ」とは限りません。私はそれが確実に「事実」であるならば、ある程度は理解できるのだと思います。しかし、そもそもそれが事実なのかどうかが良くわからないのです。

自分の特性を知ってからは、色々と気をつけて人と関わるようになりました。以前よりは「この言葉は事実なのかな?それとも他の意味があるのかな?」と意識してやり取りをするようにはなっています。

例えば『それは嬉しいなぁ(^^;』という返信。私はつい文字通り「良かった、嬉しいんだ!」と受け取ってしまいます。しかしこの場合の「事実」は、顔文字に気持ちは嬉しいけど、有難迷惑なんだよね…という意味が含まれている場合が多いと学びました。

文面でやり取りをするときには、何度も相手の文章を読み返して「見落としがないか」を隈無く探します。絵文字や顔文字はもちろん、接続詞、助詞、句読点や改行の位置… どれが事実でどれが事実ではないのか、私にはそれらを文法的な要素から推測することしかできません

 

文法的な要素は使いこなせます。助詞による意味の違いなどは文章問題でもたまに出題されますが、そういう問題は得意です。(今はもうほとんど忘れていますが、私は古典の活用形を覚えるのが大好きでした)

小学校2年生のとき、私が今でも大好きな『スイミー』という話が国語の教科書にありました。その中の一節にあった助詞について先生が出した問題に、私が即座に正解を答えたことがあります。周りの生徒から「ほ~」と言う声が漏れ、先生にも誉められました。

スイミーのとそっくりの、ちいさなさかなのきょうだいたち』という文章の中の「…のと…」という部分についての問題です。これは「スイミーのきょうだいとそっくりの」の『きょうだい』の部分を省略した表現で、スイミーの兄弟については冒頭で説明されています。

 

私にとってそんなことはとても簡単で、当たり前の表現でした。私は周りの反応に大変驚きました。私は先生に誉められながら、何でこんな簡単なことで誉められるのだろうと愕然としていました。

そのときの周りの喧騒や、教室の風景がすっと引いてゆくような感覚を、私は未だにはっきりと覚えています。『スイミー』の絵本を持っているのでたまに開いてみるのですが、その度にそのときの奇妙な感覚を思い出します。

このブログもそうですが、私は自分が文章を書くときも文法などの細かい部分にとても拘ります。そのため、書くのがすこぶる遅いです。他の人の文章を読むのも遅いです。誤字脱字が多いと、内容が頭に入らずに困ります。

 

 

上記の「読み返し」は文面での限定スキルなので、対面でのやり取りには使えません。遠回しに断ったり、興味が無いのに社交辞令で訊かれたり… そういうのがわからないと、相手の望んでいないことをしてしまいます。

これを書いていて、以前に書いた「文章と対面でのギャップがある」という件について、少し通ずることがあるような気がしました。ゴーストライター疑惑も、ここに由来しているのかも?( → 参考記事: 「うさぎの印象」その3:文章と対面でのギャップ )

最近では「自分は勘違いが多い」とわかっているので、相手や状況によっては特に気をつけます。しかし今度はいちいち深読みし過ぎてしまい、余計に訳がわからなくなることも多いです

言葉通りに受け取って良いのか、それとも違うのか… あらゆる可能性を考えた上で返すのですが、それでも良くハズします。相手の反応を見て、あーきっとハズしたんだろうな… と気づきます。

 

本当に信頼できる人には「結局はどういう意味?」「こういう解釈でいいの?」と訊いてみることもあります。しかし訊いたら訊いたで、その正解率の低さに呆れます。私がこうかな?と予想したことと全く違う答えが返って来ることが多く、びっくりします。

私が今までの人生で、会話をしていて「ほぼ食い違いも起きず、キャッチボールになっている!」と感じた相手は、実はそう多くはいません。私はずっと自分が基準だったので、いつもわからない相手に憤り、哀しい気持ちになっていました。

しかし今では「自分の方が」違うのだとわかっているので、相手に対する怒りがほとんどなくなりました。それは、自分の特性を受け入れたことの一番大きな恩恵です。

 

更に最近は、今までとは違うコミュニティに身を置いたことで、話をしていても違和感を感じない相手が何人かできました。相手には言いませんが、私は同じ傾向を持った人だと感じています。

彼らとのやり取りはとても楽しいです。私の冗談が、嘘みたいにピンポイントで伝わります。彼らの冗談や急な話の転換の意図も、私にはとても良く理解できるのです。

そういう相手には、いちいち深読みする必要も、確認する必要もありません。何も考えずに話しても気持ち良くラリーが続くそれはとても素晴らしいことだと気がつきました。

過去にも何人かそういう相手はいましたが、私は特に有難いとは思っていませんでした。私はそれ以外の人がおかしくて、彼らが数少ない「普通」の人だと信じていたからです。今思うと、とても有難い存在でした。彼らにはもう会う機会も無いと思いますが、この場を借りてありがとうと伝えたいです。

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:アスペルガーを疑いはじめる )

夜な夜なパズル!ー後編ー

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後編は「明日のパズル」についてです。( → 前の記事: 夜な夜なパズル!ー前編ー )

明日のパズルとは「翌日納品分の発注業務」です。あらゆる想像力をフル動員させ、現状のキャンパス地に未来の完成予想図を描いていく時間差パズルです。

このパズルに関しては、思う所が在りすぎて非常に細かい話にまで発展します。そして長いです。多くの人にとっては面白くない話かもしれませんが、それでも書いてみます。

私自身「自分の考え方は多くの面で、他の人とちょっと違うのではないか」と気がついたのはつい最近です。少し前までは、誰もが自分と同じように考えているものだと信じていました。

そのためどこまで伝わるのか、全く自信がありません。しかし、人と違うことこそ書く意味があると思いました。それに私はこういう話を書くのが苦ではないので、少なくとも頭の整理と自己満足には繋がり良いことです。

 

私の発注理論は細かいです。基本的には原則通り、天気、気温、曜日、近隣状況、最近の傾向、値下げや類似商品の価格、ジンクス(?)などのあらゆる経験則に基づいて考えます。

もちろん漏れダブりなく、翌日の売場の最適化が一番の命題です。しかし、それだけでは不十分です。それだけなら誰でもできるし、難易度の低いパズルのままでは面白味がありません

私が発注時に想像する『予想図』とは、現状から翌日売れた商品分を差し引いた状態、つまり翌日の品だし前の売場の状態(A)ではありません。翌日納品分を売り場に並べ終わった「翌日の品だし後の売場の状態(B)です。

その(B)の『最高理想形』をイメージし、そこから(A)を予想して逆算で発注を決めます。パズルの難易度を上げるためには上記の原則に加え、例えば「翌日の品だしする人の性格や癖も考慮していくのです。

 

特に回転の鈍い商品に関しては、翌日シフトに入る人によって発注を調整します。欠品は避けたいので多めに取っておきたいのは山々ですが、敢えてこの人の場合この商品の場合」を個別に判断します。

例えばAさんの場合、この商品だと残数が何個以下なら売場に出すだろうけど、何個以上なら箱のまま棚上に積むだろう… Bさんの場合、この商品なら残数に関わらず丸々売り場に出すだろう… などです。

棚上がプラス1になる可能性がある場合、他の棚上の商品をマイナス1にできる可能性が必要です。正解に数えはしませんが、何となくの『定量イメージ』で棚上の総数を予測調節しています。各商品の「可能性の増減イメージ」をプラマイゼロに合わせておけば、大抵の場合は巧く収まります。

 

欠品を恐れ、大事をとって前倒しで納品させるのは簡単です。しかし、そうも言ってられない理由が2つあるのです。1つはバックヤードがないに等しいため、棚上に収まらない分は倉庫行き』になってしまうこと。

もう1つは、人によっては無理な陳列をしてしまうので、却って売れなくなることです。私は自分の作業中にお客さんが来ると面倒に感じますが、それでも折角売場を作るからには「売りたい」という思いがあります。(出来れば昼間に…)

こちら側の都合で無理に詰め込んだ陳列をしてしまうと、面白いほど売れません。触ったら崩れそうな状態で積んである商品を、わざわざリスクを犯してまで手に取ろうとは思わないのが通常の顧客心理です

 

例えば普段、一日平均5個しか売れない商品でも、残りが10~11個程度になると発注したくなるのが人間心理です。もしかしたらまとめ買いをする人がいるかもしれないし、欠品は避けたいからです。

でも、翌日1つも売れないかもしれません。その場合は納品されても出さなければ良いのですが、人によっては無理矢理詰め込んでしまいます。売場の左右にスペースを作れれば良いのですが、作れないとスペースがない中での陳列になります。

結果、今にも崩れそうな積み方にならざるを得なくなり、そのまた翌日も面白いほど全く売れないのです。とてももったいないです。本来なら前日ゼロだった反動で、翌日は10個売れていたかも知れないのに!

…というのは結果論で少々大袈裟ですが、それでもわざわざ手間と時間を投入して「お客さんに敬遠される売場」を作る意味がわかりません。もしお客さんが取ろうとして崩れ落ちたら欠損品が生まれるだけで、ひとつも良いことがないからです

 

他にも、人によって考慮することは多々あります。大抵の人の発注傾向は把握しているつもりなので、上記の例とは逆に「この人は明日これを発注しないだろうから、明後日のために今日取っておこう」という商品もあります。

完璧にやろうと思うと、考えることは山積みです。ここ最近の傾向は、なぜか「隔週」の週末に酒類がよく売れます。売れなかった週末後は火曜~水曜にかけ、反動なのか平日らしからぬ売れ方をすることに気づきました。

もちろん季節や気温によっても売れる商品が変わります。その辺りは業界の常識の範囲なので、自分でも色々とネットで調べて勉強します。前年の記憶もフル動員します。

 

翌日も自分が入るときは、また別の楽しみがあります。基本的には前日導き出した「予想完成図」案を無心になぞるだけで、丁度ピッタリに収まるはずです。前日の読みがどれだけ的中したのか、その場で答え合わせができます。

週に一日だけ、納品のない日があります。その前日は発注業務がなく、前々日に二日分の発注をします。私は発注のない日はシフトに入っていないので、二日分の発注をして帰った後、一日半が経過した売場を見ることになります。その日が一番ドキドキします。

二日後の完成予想図(B)を完璧に予想して、欠品もなく倉庫行きもゼロ、棚上までで綺麗に収まる発注が出来たときには、本当に気持ちが良いです。更に倉庫までも空っぽにしてしまえたら、もう最高に良い気分です。

 

幾つかの商品は、納品までに「中一日」掛かります。各日の納品量のバランスまでも考慮をすると、なかなかチャレンジングなパズルになります。

明日のパズルは結果の正解さだけが全てです。掛けた時間と売上は比例しません。時間短縮のためには、大きなパズルをしながら頭の中に明日のパズル攻略法の目星を付けておく必要があります。

「大きなパズル」を完成させながら片手間で「小さなパズル」と「数字当てクイズ」をし、更に「明日のパズル」の粗筋を描いておく。全てが完璧に行えると、今日はとても良い仕事ができたと嬉しく思います。

 

 

売場と棚上に収まらない商品は倉庫行き』です。倉庫も非常に狭く、縦長の作りなので出し入れが大変です。一旦倉庫の奥に入ってしまうと、出すだけで一苦労。それに今度は倉庫の管理という「無駄な作業」が増えます。

倉庫の管理は誰もやらないので、結局は私がやります。私が入社したとき、倉庫の状態を見て「これはあり得ない」と呆れました。倉庫の奥に何がどれだけあるのか、誰も正解に把握していなかったのです。

賞味期限の管理は、最終的に私に回って来ます。とてもじゃないけど無理だと思いました。ただでさえ忙しいのに、倉庫の奥から物を引っ張り出すだけで相当な時間が取られます。

それに、倉庫内の積み降ろしで余計な体力も持って行かれます。その時間や体力は本来、売上に関係する売場に費やすのが筋です。私は入社直後から少しずつ、密かに倉庫在庫を減らす計画をはじめました。

 

倉庫の在庫を減らす一番の方法は、日々の発注で倉庫行きの在庫を取らないことです。減らす前に、まずは増やさない。そのためにはやはり「棚上までで収まる最大量」を見極めることが肝心です。

それでも他の人が発注する日もあり、私が読み間違える日もあります。ある商品が入荷されない日が続いた後で一気に入ってくることもあれば、こちらの発注とは無関係に一方的な大量納品があることもあります。

結局は倉庫管理も毎回行うのですが、それでもベースが空っぽならば、どんな状況でもある程度の対応が効きます。イレギュラーで増えた分も、数日で捌いてしまえば良いだけです。

私は常に倉庫の在庫を全て把握して、それを記憶しています。これは自分で触っているからという部分が大きいですが、アスペルガー傾向の記憶力の良さも役に立っていると思います

 

しかしそれでも、倉庫在庫を減らすことは現実的には色々と難しいものです。発注時に倉庫分を減らして入力すれば、少なくとも増えることはないはずなのですが、そう単純にも行きません

翌日の人が倉庫を見ないと、倉庫にある商品が売場に並ぶことはまずありません。しかも「その商品は在庫がない」と思われてしまいます。売場に出さないまではまだ良いのですが、また新たに発注されてしまうのが厄介です。

「欠品するほど売れている」と勘違いされてしまうと、大量に発注されてしまう恐れがあります。それが回転の鈍い商品だと、更に倉庫行きが増える結果に繋がります。

 

棚上の『定量イメージ』がプラスに偏り、なおかつその商品の左右のスペースが確実に取れない場合、倉庫の状況や翌日の人の性格を考えて「敢えて発注しない」決断を下すこともあります。

例えば先ほどの「一日平均5個」の回転が鈍い商品の場合、残りが6~7個でも取らないこともあります。翌日の人が必ず発注する性格であることがわかっているし、さほど売れない商品がたとえ数時間欠品しても大きな損失ではないからです。

逆に残数が少ない方が、却って売れることも多いです。顧客心理的に残りが僅かだと「なくなるかもしれない」というバイアスが掛かり、勝手に『限定商品』のような効果が発動するのかもしれません。私は行動心理学も大好きです。

発注して無理に積むと1個も売れず、発注せずにスカスカにしておくと全部売れる… それなら発注しない勇気も戦略のひとつです。そのためやはり、翌日に入る人の性格や癖まで考慮した発注が必要なのです。

 

本当は棚上には、ケース売りを見込める人気商品を乗せておくのが定石です。しかし翌日の重複発注を防ぐために、敢えて倉庫にある売れない商品を引っ張り出してきて「可視化させておくこともあります。

わざわざ棚上の商品を売れない商品に入れ換えるので、ここでも余計な時間と体力を使います。それでも、倉庫の不良在庫が増えるよりはマシです。「ここはジム!」と思って頑張ります。

…そんな感じで、少しの売上貢献を願いつつ、自分のパズル完成を最大限優先して、私はいつも仕事をしています。大変でとても疲れますが、何だかんだで楽しいです。

もしかしたら他の人は「早く終業時間が来ないかな」と思うのかもしれませんが、私は終業時間が来なければいいのになとよく思います。もっと時間があれば、もっとゆっくり遊べるからです。

それでもやはりとても疲れるので、今以上は遠慮しておこうかな… さて、今夜もパズルで遊んで来ます。今日はどんなパズルを完成させられるのか、とてもワクワクします。

 

( →: 【うさぎ年表】での分類:ブログをはじめる )

夜な夜なパズル!ー前編ー

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私は週2日はWワークで他のバイトをしていますが( → 参考記事: もうひとつの方のバイトのこと )、残りの週4日は深夜のスーパーでパズルをして遊んでいます

大きなパズル」がメインですが「小さなパズル」もあります。もうひとつ「明日のパズル」もあります。それでお給料をもらっています。とても楽しいことです。

大きなパズルとは売場の品だし」で、小さなパズルとはレジのカゴ詰め」です。明日のパズルについては、書ききれないので次回にします。どれも頭をフル回転させ、直観と経験と度胸を全投入して『図柄』を完成させます。

私がスーパーで働こうと思ったのは、ただパズルがやりたかったからです。過去に近所のスーパーに買い物に行ったとき、レジのカゴ詰めや売場の陳列棚を見て「私ならきっと、もっと綺麗に並べるのに…」とよく思っていました。

だから今の仕事は私にとって、ずっとやってみたかった業務です。実はちょっと自信もありました。スーパーの仕事は未経験でしたが、入社初日にカゴ詰めをしたときに「あれ、経験者だっけ?」と訊かれたのはちょっとした自慢です。

 

大きなパズルの品だしは、空間パズルです本当に楽しいです。棚が綺麗に整い、徐々に通路全体がピシッと締まってゆく様を見るのが大好きです。思い描いた通りに進むと、なんて幸せな時間だろうと思います。嬉しくてニヤけすぎて「何ひとりで笑ってんの!?」と相方に訝しがられることもあります。

深夜の品だしは、基本的に肉体労働です。酒やペットボトルのケースを沢山運びます。それらをあっちこっち運んで陳列し、私の背よりも20cm以上高い棚上へも何ケースも乗せて降ろしてを繰り返します。

量も半端がないです。私が働いている店舗が、チェーン内でも有数の稼働率を誇る繁忙店だというのもあります。とても体力を使いますが、ジム代わりと思えばお得です。会費も掛からず、お給料を貰ってジムに通っているようなものだからです。

心から満足の行く『完成図』まで仕上げられるかは、いつも時間との闘いです。本来は良くないことですが、忙しいときにお客さんが来ると、時間を取られるのでイライラします。たまに他店舗に応援に行くと、暇なので心ゆくまで遊べるのが嬉しいです。

 

私はとても完璧主義で、どんなに客数が多くて忙しい日でも「妥協ができません。どうしても無理な日は、誤魔化しつつ手を抜きつつ… 最低限の売場作りを優先するやり方に切り替える必要があることはわかっています。

でも、わかっていてもできません。片っ端から完璧に綺麗に並べて行かないと、どうしても気が済まないのです。暇な日もありますが、忙しい日は大変です。10時間以上、冬でも汗をダラダラ流しながら動き続けます。朝方歩くのもフラフラになり、酷いときは身体中が筋肉痛になります。

それでも、取り敢えず… ではダメなのです。気持ちが悪くて堪りません。自分が納得の行くように整えられないのなら、この仕事を選んだ意味がありません。だから肉体的・精神的に限界を越えようと、時間が許す限り頑張ります。

どうしても時間が足りない日も稀にあります。業務上は、最低限納品した物が陳列されていれば問題はないのですが、私にとっては屈辱的な敗北です。全然気持ちがスッキリしなくて困ります。それだったら、無理をしてでも頑張った方が気持ちが楽です。

 

 

小さなパズルであるレジのカゴ詰めは、一戦必勝の真剣勝負です。カートの有無、カゴを再び戻すカートの待機向き、お客さんの年代やその他諸々の状況によって「どの部分に重心を寄せるか」「安定重視で広げるか、取りやすく寄せて立てるか」を考えます。

商品をカゴからカゴへ移す際の巧く入れるコツや、積み方のNGは様々です。NGの基準はお客さんの価値観によって異なるでしょうが、それはあらゆる伏線をヒントに判断します。お客さんの持ってきたカゴには、そのお客さんの価値感のヒントが詰まっています。

それらを読み解き瞬時に見極め、最短の動線で素早く、そして美しく移してゆく。早さと正解さを比例させ、その上で美しさも追求していくことは、正にパズルゲームの醍醐味そのものです。

 

商品が溢れんばかりの(中には実際ポロポロ落としながら持って来る人もいますが…) 異様なカゴを持ったお客さんが近づいて来ると、楽しみでワクワクします。腕の見せ所です。

さすがにはじめの頃は、中段のパンやスナックの山の下から、最後の最後に重いカボチャや酒瓶が出てくるとぎょっとしました。しかし今ではへっちゃらです。「なるほど、そー来たか!」と嬉しくなります。逆に何も出て来ないと、ちょっとガッカリもします。

カゴをパンドラ状態にして持ってくる人のカゴの底には、大抵は厄介な物が埋もれているものです。それを一瞬の動揺も見せずに、無表情でさらっと巧くやり過ごす… ちょっと玄人ぽくて、得意な気分になります。無表情を装いながらも、内心ではドーパミンが大量分泌していて叫びそうになっています

 

小さなパズルは、原則やり直しが効きません。そんなことをしていたら、レジに長蛇の列が出来ます。お客さんにとっても、気持ちの良い時間ではありません。余計なトラブルの種にもなり兼ねません。

しかももうひとつ、私には小さなパズルと並行して「数字当てクイズ」というゲームも待っているのです。( → 参考記事: 数字が苦手です ) 二つのゲームを交互にやるには、頭の切り替えが大事です。注意力が分散すると、どちらも中途半端な結果になります。

それに小さなパズルに時間を取られるほど、大きなパズルの時間が失われます。それが私にとっては一番の損失です。そんな『一発勝負』である緊張感が、小さなパズル最大の魅力なのです。

 

 

私が深夜に働いている理由はまたの機会に書きますが、深夜のスーパーで働くことは私にとってとても楽しいのです。しかし恐らく、世間一般的にはあまり良いイメージがないような気がします。

なんとなくですが、人に深夜のスーパーで働いていると言うと「大変だね…」と言われ、そこに同情のニュアンスを感じることがあります。大変なことは確かですが、別に私は可哀想ではありません

スーパーで働く一年前までは、経理の仕事をしていました。それを言うと「今の仕事ではもったいない」と良く言われます。でも、私はそうは思っていません。

経理は経理で楽しいですが、スーパーはスーパーで別の楽しさがあります。特に私にとってのスーパーは、パズルが沢山あってとても魅力的な場所なのです。

スーパーでは手を動かした分、その場でパズルの完成が形に現れます。それに、その完成図が多くの人の目に触れることも嬉しいです。陳列法によって売れ行きに差があるのを実際に目の当たりにするので、日々探求と試行錯誤の繰り返しです。

 

私は自分のこの特性(アスペルガー傾向)のおかげで、どんな仕事でも自分好みのゲームにして遊ぶことができます。そして勝手に遣り甲斐を感じられるので、結構お得だなと思っています。

今のスーパーでは、パズルという「好きなこと」ばかりをやれるのです。好きなことができなくなれば、きっとまた好きなことができる仕事を探します。

生活があるので収入面での妥協はできませんが、業種に関しては基本的に「何でも良い」です。今は経理よりもパズルが楽しい!それだけです。

次回の後編は「明日のパズル」についてです。これは私の完璧主義の塊のような領域になるので、正直長くなります。しかもとてもロジカルな内容になってしまうので、読んでも余り面白くないと思います。それでも宜しければ、是非…( → 次の記事: 夜な夜なパズル!ー後編ー )

 

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もうひとつの方のバイトのこと

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私は現在、2つの深夜バイトを掛け持ちでしています。今回はその内の、メインではない方のバイトについてです。

もうひとつの方… と書いてはいますが、前に『ひとつ目のバイトのこと』という記事がある訳ではありません。私自身が普段、メインではない方のバイトを「そう呼んでいるためで、その通りに書くのが一番しっくりしたからです。

 *更新:この記事を書いたら、便乗してメインのバイトについても書いてみたくなりました。その結果、次の記事が「メインのバイトについて」になりました…

以前にも、このバイトでの出来事を少し書いたことがあります。『深夜も営業していて、漫画が沢山ある場所と言えば、大方の想像はついてしまう気もしますが… 施設名を詳しく書くのはあまり宜しくないと思ったので、そこは割愛します。( → 参考記事: うさぎも自分の名前が言えない )

 

私がこの仕事を選んだ理由は、深夜帯のバイトを募集していた「家から一番近い働き口」だったからです。勤務時間や日数も都合が合いました。深夜でさえあれば何でも良く、業種は問いませんでした

全く興味の無い分野でしたが、やってみると色々な事を学べるものです。運営元は大きな会社です。各店舗へのオペレーションシステムや、その細やかさ。現場の人事や労務の管理体制。作業を徹底的に簡素化・統一化させるための工夫。最新のツールを積極的に導入する姿勢などなど…

私はいつも、そういう角度で物事を見ています。変更の通達が届く度に、その真意を探ることが好きです。複雑化の一途を辿っていた手順が、急に簡素化へシフトしたときなどは、上で一体どんなやりとりがあったのかなぁと勝手に想像してしまいます。

自分の手間に関わるオペレーションの変更は、当然面倒臭いです。しかし、私も以前はそういった効率化を作っていたことと、自分で仕組みを考えるのが好きなこともあり、大企業ならではのやり方を観察できるのは面白いです

 

一番衝撃的だったのは、漫画の数の多さでした。私の職場にあるだけでも物凄い量で、世の中にはこんなにも沢山の漫画が存在しているのかとはじめて知りました。それに、今はどんなものが流行っているのかもわかり、新たな発見もあります。

他にも、今まで知らなかった領域に触れられることは、私にとってとても魅力的な経験です。あらゆる電子決済を扱っているため、電子マネーに明るくなったこと。業務用のレトルト食品が、どんどんと進化していることも知りました。

VR(バーチャル・リアリティ)などは、恐らくここで働かなければ一生、触ることさえなかったのではないかと思います。ドリンクバーやソフトクリームの機器は、分解洗浄をする度にこれを作った人は凄いなぁと感心します。

仕事はとても楽です。とは言っても、世間的には普通の業務量だと思います。しかし私にとっては、メインのバイトの方が肉体的にとてもハードで、しかも勤務時間も長いため、そちらと比較するととても楽に感じてしまいます。正直言うと「半分お休みの日」みたいな感覚です。

 

 

業務は原則二人体制です。私は週二日、決まった曜日でシフトに入っています。他の人も、ほぼ曜日が固定しています。そのため誰かが休みを申請したり、個人的に出勤日を交換したりしない限り、毎週同じペアになることが大半です。

基本的に役割分担が明確で、多くの飲食店のようにホール側と厨房側で分担しています。週の1日は時間帯リーダーである年下の男性とで、私はホール側です。もう1日は年上の女性とで、私は厨房側です。どちら側でも良いのですが、毎回決めるのが面倒で気がついたらそうなっていました。

彼らは私よりも勤続年数が長く、私よりも色々な業務に詳しいです。出勤日数も多く、週二日しか入らない私よりも常に現場の状況を把握しています。

そのため私はいつも、大抵のイレギュラー業務は彼らに任せてしまいます。というより、どちらかと言えば彼らの方が張り切っている様子に見えるので、余計なことはしないように大人しくしているだけです。

おかげで私は毎回、自分の分担業務さえ最終的に終わらせれば良いことになります。それ以外の時間は、自分の好きな作業に思う存分費やすことができます

 

私が好きな作業は何故か、他の人がやりたがらないものが多いのです。私は床や壁、備品などあらゆるものの掃除が好きです。汚れているのが目に入るとイライラします。しかし他の人はそんなに気にならないようで、掃除も決められた範囲以上はやらないようです。

棚や冷蔵庫の中も、納品時や使用時にぐちゃぐちゃに入れてしまう人が多いので、取り出し難くて仕方がありません。私は取り出し易く、数え易く、補充し易いように整頓するのが大好きです。綺麗に揃っている状態が気持ちが良いし、揃っていないと気持ちが悪いです。( → 参考記事: 揃っていないと気持ち悪い! )

私はホール側と厨房側にそれぞれ週1日ずつ入るので、週に一度それぞれのスペースの他の人がやらない掃除や整頓をしている感じです。誰に言われた訳でもなく、やりたくてはじめたらいつの間にか定例作業になっていました。

一応、暇なときにやる「手空き業務」というものがあるのですが、私は滅多にやりません。私の好きな作業ではないし、他の人が皆やっているから滞ってもいないし、まぁいいのかなと…

 

掃除や整頓をして誰かに褒められることはありませんが、かといって怒られることもないので、いつも自分が気の済むまでやっています。もちろん、自分の分担業務の方もちゃんと終わらせています。

もし余計なことはやらなくていいから、決められたことだけをやれと言われたら、私は楽しくないので仕事を辞めると思います

過去には何度もそれで怒られ、その度に喧嘩をして転職を繰り返しました。今の職場はもう一年以上続いていますが、まだそう言われたことはないので助かっています。

そもそも、別にサボっている訳でもないし、誰もしない補充をしておくことで皆の作業効率も上がるし、常に整頓しておくことで発注ロスや欠品も減るし、納品時にしまう人だって奥へ入れ易いし… 私は未だに過去にどうして怒られてしまったのかが、いまいち理解できていないです

 

 

相方との関係については、悪くはないと思っています。しかし私は基本的に、余程の仲が良くなった人でないと、職場では業務上のこと以外ほとんど喋りません。仕事の話はしますし、それに伴うちょっとした雑談はします。別に、相手が嫌いな訳ではありません。

しかしプライベートの話や仕事に関係のない話は、訊かれればそこそこは答えますが、自分からはまず話しませんし、訊くこともありません。黙々と作業をするのが好きです。作業に集中していると楽しいので、話をするのが億劫です。

ただ、本当に仲良くなった人とは、仕事中でも結構喋ります。少しならプライベートなことを話すこともあります。その代わり、その間の作業は滞ります。メインのバイト方のではそういう人がいますが、こちらではいません。きっと私は、物凄く無口な人だと思われていると思います。

 

週1日一緒に入る年上の女性とは、私にしては珍しく巧くやれています。もう一年以上一緒に働いていますが、私は彼女の年齢も、住んでいる場所も、結婚や子供の有無も知りません。(年上だと思うのは、何となく入社時にそんなような話を聞いた気がするだけなので、本当のところはわかりません)

深夜のバイトの良い点は、女性が少ないというのもあります。私は女性が苦手なので、本来は女性と二人きりでずっと働くことは相当しんどい環境です。考えただけで憂鬱な気分になりますが、彼女にはそう感じることが全くないのです。

実は、ちょっと似ているなと感じます。彼女も自分ルールやこだわりが強いので、私と同じ種類の人なのかなと思っています。自分のことは棚に上げて、彼女のこだわりが私にはわかり易すぎて、思わず厨房の中でひとりクスクス笑ってしまうことさえあります。

 

彼女とは、いちいち言葉でやり取りをしなくても「ここは手を出して欲しくない領域だろうな」「これは私がやるべき作業だな」というのが感覚的にわかります。恐らく、彼女も同じなのではないかと思います。

たまに雑談をしても、よく聞き取れなかったり、結局何についての話だったのかわからなかったりすることも多々あります。それなのに不思議とトラブルもなく、ぶつかることもありません。

本当にストレスフリーで、私はもう一人の男性よりも、彼女とシフトに入る方が気が楽なのです。彼女は、私が職場で全く苦手意識を感じない数少ない女性です。そこは本当に嬉しく思います。

それでも… 彼女の個人情報には全く興味がないし、職場以外で会いたいとも思いません。雑談の回数が増えることもなく、相変わらずの距離感でこれからもやって行くのだろなぁ、という気がします。

 

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