『データベース』は思い遣り?
前回は、私の『データベース』の「仕組み」についてでした。( → 前回の記事: 『データベース』の仕組み ) ここからはその「活用」についてです。相手の言動(=パターン)に遭遇した際の、私の対応について書いていきます。
相手の言動パターンが既にデータ化されている場合、私はそのデータに紐付けられた「対応法」を実践します。私は『コピー』が得意なので、一度決めた振る舞いは高確率で再現できる自信を持っています。
どの棚に何のデータが入っているかは、全て把握しています。「棚」というのは言動化するための表現なので、本当にそのような棚がある訳ではなく(当たり前ですが)、実際には記憶の中から直観的に「該当する記憶」を呼び起こし、それに沿って演じる感覚です。
相手の言動パターンがまだデータとして構築されていない場合は、自分なりに「類似とみなしたデータ」を応用するなど工夫をして、ひとまずの対処をします。その余裕さえないときは、ただとんちんかんなことを言って終わります。
その後ひとりになってはじめて、そのパターンについて考えます。リアルタイムでは対応することに精一杯で、考える暇がありません。後になって落ち着いてから全てを思い返し、はじめてその状況や、感情的な推測に思いを馳せられるのです。
稀にですが、その場で理解できた場合には、すぐに「データ」に変換します。大抵は考えてもよくわからないので、その相手の言動を「新たなパターン」として、詳細と共に「引き出し」へ入れておきます。その後は、前回書いたような流れを踏襲します。
私はずっと、他の人も自分と同じだと信じていました。人とのやり取りとは全て「演じる」ことであり、各人のデータベースの精密度は、年齢や経験に比例するものと思っていました。
円滑なコミュニケーションのためには、データの蓄積が不可欠です。そしてそれは「努力をして」手に入れるものです。あらゆる外部情報に気を配り、時間を掛けて検証を繰り返すことは、とても疲れることだからです。
それでも、より精密なデータベースを構築することは、人に不快な思いをさせないための『最低限の義務』でした。これは、母親の教育方針が色濃く根付いていたと感じます。( → 参考記事: 母親の教育方針① )
失礼な言動をする相手に対して、少し前まで私は本当に頭に来ていました。「その言動に」ではありません。その人のデータベースに「その対応法が存在していないこと」が許せなかったのです。
何故その年齢(またはその立場)にもなっているのに、その対応法が構築されていないのか。この場面ではこういう対応をすべきことは、私は子供の頃にデータ化している。何故この人は、未だにそれをデータ化していないのか。そして何故、周りの人はそれを許しているのか…
私にとって、それは「怠惰」でした。データベースの管理はコミュニケーションの基本であり、精度を上げることこそが相手への思い遣りでした。私は、データの総量がその人の優しさだと思っていたのです。
今では自分のデータベースの存在を自覚して、こうして客観的に見ることができます。しかしそれまでは、それが人間の頭の基本的な構造だと思っていました。データベースとは、私にとってはそのまま「その人の人間性」でした。
人と対面するときはいつも、常に私は気を張り続けていました。素早くデータを活用して巧く演じ切るには、一瞬でも「対人モード」のスイッチをOFFにしてはいられなかったのです。( → 参考記事: 「対人モード」について )
相手の言動への対応作業は「対人モード」がONのときは、常に一瞬の内で行えます。瞬きをするより早いです。それは、幼い頃からそうできるように鍛練してきたからです。相手に気づかれることもないと思います。
しかし「対人モード」がOFFのときは、面白いほど何もできません。もし途中でその作業が必要になったとしたら、最初にすることは「対人モード」のスイッチをONに入れること… 手動でONにできればの話ですが。
もし少しでも気を抜いたら、相手に失礼な対応をしてしまう。それは、私の人間性を疑われることだと思っていました。私はとても頑張って対応を学び、常に完璧に演じる準備を心掛けていたので、そう思われることだけは絶対に嫌でした。
最近はスイッチがOFFのとき、スイッチの存在さえ忘れていることがあります。それ自体はとても良いことですが、そうなると『スイッチをONに入れる』という作業は完全に不可能です。
その結果「ちょっとズレている私」のままの状態で、相手と接することになります。必然的に、無意識に相手に嫌われたり、傷つけたりする可能性も上がります。
とは言うものの、巧く「データ」を元に演じ切れたとしても、それはあくまで自己評価です。本当にその場に相応しかったのか、相手がどう受け取ったのかまではわかりません。
結局どちらにしても、ダメなときはダメです。ただ「意識的に演じて嫌われる」か「無意識の内に嫌われる」かの違いだけです。
私としてはまだ「意識的に演じて嫌われる」方が気が楽です。それはそれで、今後その「データ」をブラッシュアップするヒントに繋がるかもしれないからです。一度データ化されたものも、機会があればより精度を上げるに越したことはありません。
無意識だと、嫌われたことにさえ気づけません。OFFの状態で接することができるほど心を許した人に、後になって「実はずっと前から嫌われていた」と知るほど辛いことはありません。
いずれにしても、相手を傷つけてしまうことが哀しいことには変わりありません。しかしそれは、誰にでもあることだと知りました。ごめんなさいと言うしかないのかもしれません…
私には、物心ついた頃にはもう『データベース』がありました。気がついたら無意識にやっていた作業は、やはり説明が難しいです。ここまで細かく分解したのも、今回がはじめてです。書いていて、自分でも「なるほど…」と思う部分もありました。
誰の頭の中にでも、これに近い機能は少なからずあると思います。しかし私の場合は、それが全てでした。私にとっては「データベースにないことを言うこと」のほうが異常事態でした。
徐々に慣れてはきましたが、以前はそれだけでいちいちパニックになりました。そういう場面になると、私は何も言えずに突然ぼろぼろと泣いてしまいます。そうなる状況も理由もわからなかったので、とても困りました。自分の意志とは関係なく泣いてしまうことを、私はずっとコンプレックスに感じていました。
今では「データベースにないことを言おうとしたから」だとわかります。突然真っ白になって泣き出してしまうことは、今でもたまにあります。でも理由がわかっているので、何とかやり過ごせます。そのことは、またいずれ書けたらいいなと思います。
最近は、少しずつですが『データベース』を経由させずに話すことができるようになりました。心理学を学び、自分のデータベースの存在を自覚してから、その方法について随分と考えた成果だと思います。
自分の素直な感情や考えを伝えると、相手が喜んでくれることがあると知りました。しかし、傷つけてしまうことも多いです。まだまだ難しいです。
データベースを介さずに直接面と向かって話した内容は、未だにあまり自覚が無いことがほとんどです。後になってやっと自覚が追い付き、反省会がはじまることも日常茶飯事です。これにも少しずつ慣れました。
いま暫くは、こんな感じでも良いのかなと思っています。それにデータベースに頼らずに人と話せると、とても嬉しく感じます。反省会は正直自分でも面倒くさいですが… そんなに悪いものでもないのかな、とも思えるからです。
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