glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

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母親の教育方針①

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私は、幼い頃の「とても嫌だったこと」を、今でもとても良く覚えています。それらは、両親に関わる記憶が一番多いです。主に怒られた記憶です。

今回は母親の教育方針について、2回に分けて書こうと思います。これはどちらかというと、発達障害よりも母娘間での愛着の問題だと思います。

これらは私が3~4年前に心理学スクールへ通っていたときに、当時習った『脚本分析』という手法を使ってはじめて自分の過去を振り返って気づき、自分なりにまとめたことです。母親の過去に関しては、本人から以前に一度だけ聞いたことがある内容です。

 

私の母親が「正しさ」にとても厳しくなったのは、彼女の生い立ちに由来しています。私は両親に特に思い入れがないので、冷静に分析ができます。母親の厳しさは、彼女にとっては必然的なことだったと思っています。

母親の両親は離婚をしており、彼女は姉妹とともに祖父母(私の曾祖父母)に預けられた経験を持っています。当時はまだ、離婚が珍しい時代でした。彼女たちは近所でも有名な「可哀想な姉妹」だったそうです。

そこでまだ幼かった彼女は状況を鑑みず、義理の伯母に対し子供特有の「ワガママ」を色々と言ってしまったそうです。大人の事情や立場をまだ知らなかったとはいえ、彼女はそのことを今でも後悔しています。

そして、淋しさから菓子パンばかり食べていたことが原因(と本人は言っています)で、彼女は私が生まれる少し前に、出産を危ぶまれるほどの大病を患いました。私が当時では珍しい一人っ子なのは、そのことが原因です。

 

娘には同じ過ちを繰り返させる訳にはいかないと、常に礼儀正しく食に正しくが母親の教育方針となりました。彼女にとっての正しいこととは、彼女曰く「世間一般に言われている普通の幸せ」です。それはとても努力をしてようやく手に入るもので、そうしなければ決して届かないものなのです。

例えば家族が揃って食卓につくことは、普通の家庭にとって「しなければならないこと」です。両親は共働きで、私は普段ひとりでの食事が多かったのですが、ひとりの方が気楽で好きでした。たまに彼らと食事をする時間は、私にとって正に「しなければならないこと」でした。

周囲から可哀想だと思われていたことが、彼女は悔しかったのだと思います。自分が果たせなかった正しい人生を、どうしても娘には歩ませたかったようです。私は物心付いた頃から、母親から常に正しくあることを求められて生きてきました。以下は、私の小学生のときの記憶です…

 

たとえ相手が親だろうと、人様に迷惑をかけることは「悪いこと」です。親を待たせることは、親に対して失礼に当たります。待たせているのだから走りなさい、急ぎなさいといつも怒られました。そして、待たせたことを謝ります。

親の運転する車から降りるときは、毎回きちんとお礼を言わないと怒られます。もう一度車に戻らされ、やり直しです。何かをしてもらったら、その都度感謝の言葉を述べないと失礼です。大人に言われたことを守らないのは、目上である「大人」に対して失礼です。

人に対しては、常に礼儀正しくしないといけません。大人と同等のレベルができて当たり前で「子供だから」は言い訳です。それは、両親の次に近い血縁の祖母に対しても同じでした。

お正月とお盆に祖母の家に行ったときには、礼儀正しく挨拶をして「お邪魔します」と言い、靴を揃えてから上がります。率先してお手伝いを申し出ます。お小遣いはひとまず「気持ちだけ」受け取り、それでも強引にくれるときだけもらって、すぐに親に断った経緯と金額を報告します。私は祖母の家に行くことが、余り好きではありませんでした。

 

お菓子やジュース、添加物の入った加工食品などは、体に毒なので食べてはいけません。母親が作った麦茶がなくなれば、次に作るまでは「水も牛乳もあるでしょ?」と言われます。今は好きですが、昔はそんなに牛乳が好きではなかったので、私の選択肢は水だけでした。

お菓子は年に数回だけ、添加物の入っていないチョコ棒を買ってもらえます。とても嬉しくて、毎回こっそり一度に全部食べては怒られました。その後また数ヶ月は買ってもらえなくなります。高学年になってはじめて、同級生について行って駄菓子屋に入ったとき、私は何を食べたら良いのかわからず、おもちゃしか買えませんでした。

年に一度、スイミングクラブのコーチがみんなを連れて行ってくれるモスバーガーだけが、私が唯一行ったことのあるファーストフード店でした。世の中にはこんな食べ物があるのかと、私は興味深々でした。私がはじめてカップラーメンを食べたのは、中学生になってからです。

 

体に良いと母親が買って来たものは、それがどんなに嫌いなものでも毎日食べなくてはいけません。私は昔から、プルーンがこの世で一番嫌いです。生の果物としては普通に食べられますが、よく売られているドライのプルーンがダメです。匂いだけで吐きそうになります。

しかしとても体に良いということで、定期的に母親が大袋で買って来ます。嫌で嫌で堪りませんでしたが、それがなくなるまでは毎朝一粒ずつ食べないと、通学班の集合場所に行かせてもらえませんでした。

時間通りに行かないと、他の人に迷惑が掛かります。それはそれで怒られます。母親が見ているときはどうしようもないので、泣きながら食べました。いないときはゴミ箱に捨てていましたが、見つかるとひどく怒られます。翌日、お皿に二粒乗っていることもありました。

最終的にはこっそりと学校まで持って行き、教室のゴミ箱に捨てていました。ランドセルの奥に隠して持って行くのですが、匂いが移ってしまう気がしてとても嫌でした。厳重に慎重に、何枚ものティッシュを使ってくるんでいました。

 

…まだまだありますが、それらをすべて守らないと「正しくて幸せな、普通の人生」を歩めないと言われ続けて育ちました。それは私のためであり、私は「恵まれているのだから」それらはできて当たり前のことなのです。

私が恵まれているというのは、両親と一緒に何不自由なく暮らせていることです。「一緒に暮らしたくても暮らせない人もいるのだから、ちゃんと言うことを守りなさい」というのが、母親の口癖でした。上記の事項は目標などではなく、母親にとっては私がこなす最低限の義務でした。

 

幼かった私は、それらの言い付けを次々と守りました。嫌なことは本当に嫌でしたが、それを除けば私にとってはさほど難しいことではありませんでした。ただ言われた通りにやれば、怒られずに済むのです。私はどこか、ゲーム感覚でそれらをこなしていたのだと思います。

周りの大人たちが口を揃えて私を褒める姿を見る度に、私は奇妙に感じていました。彼らに失礼のないよう当たり前のことをしているだけなのに、わざわざ褒められる必要性が私にはよくわかりませんでした。それに、褒められるとお礼を言わなければなりません。面倒が増えて嫌でした。

兄弟がいなかったこと、友達もほとんどいなかったことで、私にとっては比較の対象がありませんでした。「子供」とはそんなもの、どこの家でも同じなのだろうと思っていました。

しかし、他の子供は私ほど、礼儀にも食にも正しくはありませんでした。なぜできないのか?なぜできなくても許されてしまうのか?私はずっと不思議に思っていました。それでも私はやらなければ怒られるので、実際にはその疑問について考えている暇がありませんでした。

 

特に「人に不快な思いをさせないこと」は、幼い私にとって基本中の基本であり、一番の関心事でした。それはその後、私が生きていく中でとても役立ちます。結果的に『マスク』として、私は独自に様々なバリエーションを身に付けることになります。( → 参考記事:『マスク』について  )

私はもうこの時点で、既に相当な「良い子」を演じて来たつもりでした。そこで終われば、私も楽だったと思います。しかし、母親の求める「正しさ」は、礼儀や食だけに留まりませんでした。それは次回へ続きます…

 

( → 続きはこちら: 母親の教育方針② )

 

( →【うさぎ年表】での分類:小学生時代 )