glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

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母親の教育方針② 

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前回の続きです。

 ( → 前回の記事: 母親の教育方針① )

 

母親にとって娘が「正しくあること」は、自分の過去を浄化するためにも不可欠なことだったのだと思います。私もそれは仕方がないと思います。母娘間ではよくある話です。

しかし、彼女は欲張り過ぎたと思います。それは前回のふたつの他に、もうひとつあった「正しさ」の存在です。『常に向上心を持つ』という正しさです。彼女が私をどうさせたかったのかはわかりませんが、娘を使って「より正しい親」であることを誰かに証明したかったのかもしれません。

私は何事をするにも向上心を持って、可能な限り更なる高みを目指さなくてはなりませんでした。それができる環境があるのなら、それを最大限に活かすのが「義務」です。

 

母親の求める向上心には「ジャンル」も「上限」もありませんでした。ひとつができると他のことを指摘され、更にその上のレベルを目指すよう指導されます。私はそれを正しく理解して、正しく実行しないと怒られます。

私は、母親が険しい顔でよくわからないことを言い出し、次第に怒り出すのがいつも嫌でした。私にはなぜそれがそんなにも必要なのか、どうすれば怒られずに済むのかがわかりませんでした。

仕方がないのでその度に、彼女の話で要点と思われる項目を真面目な表情で繰り返すことで、理解したフリをしていました。私はただ「どうやったら話が早く終わるのか」だけをずっと考えていました。その結果、そうすることが一番早いと気づいたからです。そして後は、何をするにもとにかく気を配り、彼女が満足するまでやり続けるだけでした。

私は両親が好きではなかったので、愛されたいとか認められたいとかいった感情はありませんでした。ただ、母親が本気で怒りだすと、何時間でも延々と怒られます。それをできるだけ回避するためには、言われた通りにやる以外ないと学んだのです。


私は母親に、何かしているところを見られるのが大嫌いでした。運動会や発表会などの学校行事では、いつも母親が来ませんようにと本気で願っていました。家族や親戚が見に来ることを喜んでいる周りの子供が、私には全く理解できませんでした。

母親の顔が見えると、私は心底がっかりしました。何をやっても結局、帰ったらまた何か怒られる… そう思ってとても嫌な気持ちがしました。母親が見ている時間は私にとって、一番気を抜いてはならない時間でした。

運動会では、私は何に出場しても一等賞だったのではないかと思います。覚えていません。母親は毎年観に来ていたような気がします。親とお弁当を食べなければならない昼休みのシステムが、一番憂鬱だった記憶があります。午前中の何かについて怒られるのではないかと、毎年びくびくしながら彼女の元へ向かいました。

私の小学校の運動会の思い出は、秋の午後の少し軽くなった風に舞う砂けむりと、そのどこか物哀しさを乗せた風の匂いです。教室から校庭に運んで使っていた自分の椅子を、閉会式後また教室へ運ぶときに見ていた風景です。

毎年その同じ風景をぼんやり眺めていたときの、なぜか鼻の奥がツンとして涙が出そうになった感覚を、今でもとてもよく覚えています。

 

 

勉強に関しては、実はそれほど言われたことがありません。宿題はスイミングクラブへ行く時間までに、自分からさっさと終わらせていました。算数の分数の計算だけは全く理解できずに母親に教わった記憶がありますが、それ以外は親に勉強を見てもらうこともありませんでした。

私は記憶力が良かったのと、要領を得るコツを幼い頃に学んでいたせいか、学校の授業を聞いて宿題さえやっていればテストで点が取れる子供でした。そのためか、勉強しなさいと言われたことも滅多にありませんでした。逆に、なぜ他の子供は授業で聞いたことが答えられないのかが、私には不思議でした。

テストの結果についても、全教科で93~94点以上取っていればそんなに言われませんでした。それ以下のときは、自分でもヤバいと思って先に謝っていました。それでも期末になると、通知表を見るのが怖かったです。ひとつでも最上評価が付かなかった科目があったときには、母親に通知表を見せるのが嫌でした。

 

私は母親に褒められた記憶がほとんどありません。もしかしたらあったのかもしれませんが、私は覚えていません。怒られずに済んだ安堵感の方が強かったのだと思います。

テストで100点を取ったときは自分でもちょっと得意な気持ちになりましたが、それよりも「これなら母親に見せても何も言われない」という確信を持てたことの方が嬉しかったのです。

スイミングの大会でも、なかなか切れなかった全国大会の出場タイムを切れたときに真っ先に感じたのは、これでようやく怒られないという安堵感でした。スイミング関係のことは、私が最も母親に怒られ続けた記憶です。これは長くなるので、またの機会にします。

 

そんな優等生をやっていたためか、私はことあるごとに学年や学校の代表に勝手に任命され、児童代表の挨拶や司会、校外向けのビデオのナレーションなどをやらされていました。その度に母親がお手本を持ってきて、コンセプト作りから彼女主導の元で作るのが常でした。

母親が求めるのは、大人が感動する成果です。彼女が持って来たお手本は、恐らくテレビや実体験で彼女自身が感動したものだったのだと思います。お手本は大人がやっていることです。小学生ならまずやらないようなハイレベルなものを私は毎回作らされ、本番ではそれを完璧に演じなければなりませんでした。

おかげで小学生時代は、すべての代表の役割が私のところに回って来ました。先生たちからは非常に褒められます。校長先生からも直々に褒められます。他校でも参考にされていたようです。

しかし私は、なぜ自分だけがこんなに次から次へ、いちいち母親に怒られる作業をしなければならないのかがわかりませんでした。でも、勝手に回って来るのでやるしかありません。やるのは嫌でしたが、母親に怒られることはもっと嫌でした

 

私の子供の頃の記憶は、母親に怒られた記憶ばかりです。もちろん私にも、楽しかったことや嬉しかったことがあったと思います。でも私はほとんど覚えていません。そしてそういったことは、できる限り親にも話しませんでした。

小学校に上がる頃には既に、私はその日1日にあったことを家で話すのを辞めました。何かを話すといつも、気がついたら怒られているからです。恐らく私の話の中に、母親からしたらもっと向上できる余地が何か見えたのだと思います。

それでも幼かった私は、つい嬉しかったことを話してしまったことが何度かありました。内容は覚えていませんが、誰かに話したくなるほど嬉しいことがあったのだと思います。他に話す人がいなかったのもあります。結果は、毎回同じでした。

私の嬉しかったことの幾つかは、母親に話したせいで嫌な記憶に変わりました。私には、どこがどうして怒られる原因になるのかがさっぱりわかりませんでした。ただ嬉しかったことを話しただけでした。私はその度にいつも泣きながら後悔して、もう二度と話さないと何度も心に誓いました。

 


 

心理学スクールで色々と学び、自分の過去を客観的に振り返ったとき、私は唖然としました。よくやって来れたなと感心しました。

そして私は30代半ばになってまで、自分が母親の顔色を伺って生きていることに気がつきました。周囲の協力が必要な決定をするときの基準が、自分のではなく母親の価値観そのものだったからです。

その後「毒親」という言葉を知り、親子の愛着問題について勉強しました。私は暴力を受けたこともなければ、両親はアル中でもありません。ずっと『私は恵まれている』という母親の言葉を信じていましたが、今ではちょっとおかしかったことがわかります。

 

世間では一般的に、親は大切に敬うものとされています。しかし最近は「嫌いなものは嫌いで良い」という意見も多くなりました。私はそれを知り、とてもホッとしました。今ではできるだけ距離を置くようにしています。

たまに親の話を少しでもすると「それでも、心のどこかでは親の愛を求めてしまうもので、親には認められたいものである」といった内容のことを言われるときがあります。親と距離を置くのにも、ものすごい葛藤や罪悪感を抱える人の話も数多く聞きます。

それでもやはり私は、何も感じることがありません嫌いなものは嫌い。距離を置けるならそれに越したことはありません。葛藤も罪悪感も、全くないのです。

嫌いで構わないという文章を読んだとき、私は「あ、なんだ。いいんだ」と思い、それ切りでした。これはもしかしたら、アスペルガー傾向のおかげかもしれないと思っています。ここへ来てまでまた悩みが増えずに済んだことを、実は少しだけ感謝しています。

 

( →【うさぎ年表】での分類:小学生時代 )