glay-usagi’s diary

ASDグレーゾーン「うさぎ」の、理解されない人生の記録

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テストは楽しいゲームです!

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私はテストが好きです。「正解」を記述すると「得点」が入り、それを積み上げることで「総得点」が出ます。私にとっては楽しい『ゲーム』です。

テストで正解を答える快感は、まるでボウリングのようです。記憶というマイボールで、100点満点のテストなら100本のピンを何本倒せるか。もちろん、多く倒せる人ほど上級者です。

本物のボウリングになると、私はとても下手くそです。ボールがレーンを半分転がった辺りから、スコアボードに出るアルファベットがわかってしまい面白くありません。テストで100点を取ったことは何度もありますが、ボウリングで100点まで届くことは滅多にありません…

でも、テストは得意です。開始時間になると、全てのピンをなぎ倒してやろうと腕捲りと舌舐めずりをしたい気分に駆られます。高得点は、やはり気持ちが良いものです。豪快な音を立てて、ピンの山を弾き飛ばしたような爽快感があります。

 

私のテストとの出会いは、大半の人と同じ小学校1年生の学校のテストです。何の教科のどんなテストだったかは覚えていませんが、すぐに私はテストが好きになりました。

何て面白いゲームなのだろうと思いました。次第に私は普段の授業でアイテムをたくさん集め、うまく攻略法を身に付けることを覚えます。そうすることで、そのゲームでは面白いほどの高得点を叩き出せることに気がついたのです。

しかも定期的に開催され、ステージも自動的にレベルアップします。このゲームはいくらやっても怒られず、高得点を出すほど世間的にも良いこと」なのです。そんな都合の良いゲームが存在するなんて、もはや夢のようです。

 

私は周りの同級生に比べ、著しく本物のゲーム経験がありませんでした。私が幼稚園の頃に初代スーパーマリオブラザーズが発売され、時はファミコン全盛期。しかし私はその存在さえ知らずに生きていました。

ところが私が小学校に上がる直前、親が突然ファミコンとスーパーマリオのカセットを買って来ました。どうやら、母親が長期検査入院をする間の「子守り」として与えられたようです。後にも先にも、私が人生で唯一親に買ってもらったゲームでした。

はじめてのスーパーマリオはとても面白く、私はすぐに夢中になりました。7-4面の迷路の通り順は、30年以上経った今でもまだ覚えています。

私が一番頑張ったのは、誰に教わったのか3-1面のゴール前でカメを踏みまくって無限1upをすることです。全く巧く踏めず、挑戦する度にそこでゲームオーバーでした。よく考えると無駄な労力ですが、そればっかりをやっていたような気がします。

 

しかし残念なことに、ファミコンの本体がたった1ヶ月で故障しそれきりでした。丁寧に扱った記憶がないので、恐らく原因は私です。カセットだけでは何もできません。私がTVゲームを持っていたのは、人生でこの僅か1ヶ月間だけです。

そんな頃に出会ったのが、学校のテストでした。私は勉強ができるようになりたいとか、頭が良くなりたいとか、それで将来どうなりたいとかは全く興味がなく、ただテストという新たなゲームが面白かったのです。

学校の授業は、ゲームをクリアするための「知識」を得られる場です。漢字や計算を覚えることは、どの土管が地下に通ずるのか、どのブロックを叩けばキノコが出るのかを覚えることと同じです。

新たなアイテムを手に入れると楽しいです。高得点が出ると嬉しいです。どんどん難易度が上がるのは当然で、そうでなければ飽きてしまいます。そしてミスをすれば、やっぱり悔しい!

テスト中はもちろん、少し緊張します。スーパーマリオで8-3面まで1回も死なずに来たら、8-4面では多少慎重になるのと同じです。ラストで勢い余ってクッパに突っ込んだらかなり笑えません。イージーミスほど細心の注意が必要です。

 

 

そんなこんなで遊んでいる内に、私は瞬く間に「学校で一番の優等生」になりました。色んな人に感心され、ことある毎に誉められます。しかし私には、どうしてそんなに凄い!偉い!と言われるのかがさっぱりわかりませんでした。

小学生でスーパーマリオを全面クリアしても、別段世間から称えられることはありません。世界最高得点を出したり、新しい攻略法を発見したりしたのならニュースにもなるのでしょうが、ただ無難に全面クリアしただけでは『普通』です。

私にとって「テストの満点」とは、それと同じ程度のことでした。何故なら私は毎日のようにアイテム集めに励み、真剣にゲーム本番に挑んでいるのです。スーパーマリオと同じで、毎日やっていれば簡単にクリアできるようになるのは当たり前です。

それなのに、学校のテストに関しては周りが大袈裟に称えます。そして何より、全く同じ授業を受けているはずの他の人がいつまで経ってもクリアできるようにならないことが、私には不思議で仕方がありませんでした。

 

…今の私にはわかります。多くの人にとってテストは楽しいゲームではなく、勉強はアイテム集めではなかったのです。ともすれば「やりたくないのに、やらなければいけないもの」…私の最も苦手な部類に属するものだったのです。

それが9年間も義務化されているだなんて、考えるだけでゾッとします。幸い私は最終学歴の高校卒業まで、そのことに気が付くことがありませんでした。おかげで私の人生において、勉強もテストも「楽しい遊び」のまま今に至ります。

一見すると、良いこと尽くめに思えます。しかし、私は特定の分野に関心を持つことがありませんでした。攻略方法にしか関心がなく、その『内容』はどれもキノコやスターと同じです。得て使う、ただそれだけの対象でした。

私にとって、全てはゲームでした。知識はただのアイテムで、集めることが楽しかったのです。ゲーム感覚で得たことまでは良かったのですが、得たものをその先の「社会」で活かすという発想には至りませんでした

 

そうして小学校で一番の優等生は、成りたい物もやりたい事も何もわからないまま進路を考える年頃を迎えます。そこから私は、どんどん「優等生のレール」から脱線をはじめました。

当時私を誉め称えていた人たちは、さぞかしがっかりしたことと思います。もしかすると小学生時代の私を知る人は「良い大学行ってエリート街道まっしぐら」くらいは当然と思っていたかもしれません。

しかし当の本人は、何にも考えていませんでした。ただゲームが面白いだけで、善くも悪くも将来のことなど全く考えていなかったのです。いくら勉強ができても、これではいただけません。私が言うのも何ですが、教育って大事です。

 

私にとって、テストは今でも楽しいゲーム』です。大人になってからもいくつか資格試験を受けましたが、その勉強も毎回楽しくて全く苦になりません。それはちょっとした自慢です。

正解を答える快感も健在です。ボウリングに限らずビリヤードもゴルフも… 何度やっても一向に上達しない私にとって、クリーンヒットを決められる機会はとても貴重です。

嬉しいと、心の中で「うっしゃ!」と叫び、卓球の愛ちゃんみたいに小さくガッツポーズをします。たまに間違えて声に出してしまうと、少し恥ずかしい思いをします。

 

最後にもうひとつ。私にとってはとても意味がある、秘密の楽しみについてです。それは「全てのマスが埋まった答案用紙は美しい」ということ。これはペーパーテストならではの醍醐味です。

小学生の頃、全てのマスが埋まった美しい答案用紙が、紙一面に赤い水玉模様を載せて戻って来るのを見るのが私は堪らなく好きでした。満開のお花畑のようなその紙を、一人で何度も開いてはただ眺めていました。私は綺麗に揃っている状態が大好きなのです。

…だからなのかもしれません!私は綺麗に揃っている状態を崩したくなくて、ボウリングでも無意識に「G」を狙っているのかもしれません。ブレイクショットがブレイクしないのも、ドライバーやアイアンが空を切るのも、恐らくは…

嘘です。ちょっと綺麗にまとめようと欲張りました、ただの実力不足です。今後も精進に努める次第です…

 

( →:【うさぎ年表】での分類:小学生時代 )